CASE 09

第9話 銀行から「誰が借りるのですか」と聞かれた

管理会社から届いた大規模修繕工事の見積額は、2,000万円でした。

外壁のひび割れ、屋上防水の劣化、古くなった給排水設備。先延ばしにすれば、漏水などの被害が広がるおそれがあります。

工事の必要性は、美咲にも分かっていました。

問題は、その資金をどう用意するかです。

山田家の信託財産には、管理用現金が1,000万円あります。しかし、その全額を工事へ使うわけにはいきません。

美咲は、工事へ充てる自己資金を500万円とし、残る1,500万円について銀行へ相談することにしました。

その話を聞いた健一が、不思議そうに尋ねました。

「1,000万円あるなら、全部使えばいいんじゃないか。そうすれば、借りるのは1,000万円で済むだろう」

「マンションの管理は、今回の工事で終わるわけではないの」

美咲は答えました。

固定資産税、既存借入金の返済、日常的な修繕、急な設備故障。家賃の入金が遅れたり、空室が増えたりする可能性もあります。

そのため、山田家では管理用現金のうち500万円を手元に残し、工事へ使うのは500万円にとどめることにしました。

工事費2,000万円から自己資金500万円を差し引くと、必要な新規借入額は1,500万円です。

美咲は、信託前からの借入金約3,000万円を取り扱っている銀行へ相談することにしました。

2,000万円の工事費を、どう用意する?

山田家の賃貸マンションからは、年間約1,500万円の家賃収入があります。

しかし、1,500万円がそのまま毎年手元に残るわけではありません。

管理会社への手数料、固定資産税、火災保険料、通常の修繕費、既存借入金の返済があります。受益者である和子の生活費として給付するお金も必要です。

年間家賃1,500万円は、マンションから入ってくる総収入です。

銀行への返済に使えるのは、そこから必要な支出を差し引いた後の資金です。

新たに1,500万円を借りれば、既存借入金約3,000万円と合わせて、工事後の借入金は約4,500万円になります。

「家賃が年間1,500万円あるから、1,500万円くらいなら借りられる」と単純に判断することはできません。

既存借入金も含め、今後も返済を続けられるのか。

美咲は、工事を正式に発注する前に、銀行の判断を確認する必要がありました。

銀行から「誰が借りるのですか」と聞かれた

美咲は銀行へ、信託契約書、登記事項証明書、工事見積書、賃料明細、既存借入金の返済予定表を持参しました。

銀行の担当者は一通り資料を確認すると、美咲に尋ねました。

「今回の工事資金を借りるのは、和子さんですか。美咲さん個人ですか。それとも、受託者としての美咲さんですか」

美咲は、信託を始める前の打合せを思い出しました。

司法書士からは、借入権限があることと、銀行が融資すること、そして自分が返済責任を負うことは別だと説明を受けていました。

「受託者として借りる方法を検討しています。ただ、母が借りる場合や私が個人として借りる場合と、今回の契約条件がどう違うのか、改めて確認したいです」

「では、借主、返済責任を負う財産、担保や保証、受託者が交代した場合の扱いを、一つずつ確認しましょう」

1,500万円という具体的な金額を前にすると、事前に受けた説明の重みが変わりました。家賃から返す計画だけでなく、自分と家族にどのような責任が残るのかを確認する必要があります。

契約書に借入権限があっても、融資が決まるわけではない

山田家の信託契約には、美咲が受託者として、マンションの管理に必要な借入れを行い、必要に応じて信託不動産へ担保を設定できる旨が定められていました。

それでも、その契約書だけで銀行融資が決まるわけではありません。

司法書士は、信託の目的と契約内容に照らして、美咲に借入れや担保設定の権限があるかを確認します。借入れによって美咲が負う責任や、受託者交代時の取扱いについても、銀行の提示する条件と照合して整理します。銀行は、返済可能性、担保、保証その他の条件を審査し、実際に融資を行うかを判断します。税理士は、修繕後の収支や税負担を含めた資金計画と、借入れに関する税務上の取扱いを確認します。

銀行は、信託契約の内容だけでなく、次のような事項を確認します。

  • 誰が借主になるのか

  • 借入金を何に使うのか

  • どの収入から返済するのか

  • 既存借入金を含めて返済を続けられるか

  • 信託不動産へ担保を設定できるか

  • 和子が亡くなった後も信託が続くのか

  • 美咲が受託者を続けられなくなった場合、誰が引き継ぐのか

  • 保証人や追加担保が必要か

信託契約に借入権限があることは、融資を申し込むための前提です。

銀行が融資を承認することまで保証するものではありません。

母が借りる、長女が借りる、受託者として借りる

銀行担当者は、考えられる借入れの形を整理しました。

借主の候補 分かりやすく見える点 確認が必要な問題
和子が個人として借りる 既存借入金と同じ借主になる 和子の判断能力や、信託不動産を美咲が管理していることとの整合を確認する必要がある
美咲が個人として借りる 銀行と交渉する人と借主が一致する 美咲個人の債務となり、信託財産の借入れや支出と混同しやすい
美咲が受託者として借りる 借入れ、工事、家賃、返済を信託財産の管理として整理しやすい 信託契約、銀行の取扱い、担保、責任の範囲、受託者交代時の手続を確認する必要がある

山田家では、美咲個人が自宅や生活のために借りるのではありません。

信託財産であるマンションの大規模修繕に使い、そのマンションから生じる家賃を返済原資とします。

美咲が受託者として借りる方法は、借入れ、工事、家賃、返済を信託財産の管理として整理できる選択肢です。ただし、管理しやすいことだけで、その方法を選ぶわけにはいきません。山田家では、銀行から具体的な融資条件の説明を受け、返済計画と美咲の個人責任を確認してから判断することにしました。手元資金を多く使って借入額を減らす方法や、管理会社と工事内容・時期を調整する方法も比較します。母や美咲が個人として借りる方法についても、借主の返済責任と、借りた資金を信託のために使う法律関係を確認します。信託の外で借りれば、責任の問題がなくなるわけではありません。

ただし、「受託者として借りる」と書けば、すべての問題が解決するわけではありません。

受託者として借りれば、美咲個人は無関係?

「受託者として借りるなら、返済の責任もマンションだけに限られるのですか」

美咲が尋ねると、司法書士は慎重に答えました。

「信託そのものが、会社のように独立して契約するわけではありません。融資契約上の借主は、受託者として表示された美咲さんです」

借入金を信託口口座で受け取り、信託不動産の工事へ使い、家賃から返済する。その意味では、信託財産の管理に必要な借入れです。

しかし、それだけで美咲の固有財産に一切責任が及ばなくなるわけではありません。

銀行との契約で返済責任を信託財産だけに限定しなければ、美咲の固有財産も返済責任の対象になり得ます。銀行が先に信託財産から回収し、不足した場合だけ美咲の固有財産へ請求するという順序が、当然に保障されているわけではありません。

「私が個人保証をしなければ、大丈夫ということでもないのですか」

「保証人としての責任と、借主本人としての責任は別です。個人保証を付けないことだけでは、借主としての個人責任がなくなるとは限りません」

信託口口座で資金を管理することも、融資契約に受託者と表示することも、それだけで美咲の個人財産を守る仕組みにはなりません。

実際には、自分がどのような立場で契約し、どの財産が返済責任を負うのかを確認する必要があります。

台風で家賃が入らなくなったら、誰が返す?

健一は、さらに尋ねました。

「でも、家賃から返すんだろう。マンションがある限り、返済できるんじゃないか」

美咲は、以前の漏水事故を思い出しました。

もし台風で建物が大きく壊れ、長期間にわたって部屋を貸せなくなったらどうなるのか。

修繕中に入居者が退去し、家賃収入が減ったらどうなるのか。

保険金だけでは復旧費用を賄えず、借入金の返済も続けなければならない場合はどうなるのか。

銀行は、通常どおり家賃が入る場合だけを見て融資を判断するわけではありません。

賃料が減少した場合の返済余力、手元に残す管理資金、保険の補償内容、信託不動産の担保価値なども確認します。

山田家が管理用現金500万円を残すのも、工事後の不測の支出に備えるためです。

ただし、その500万円があれば、どのような事態にも対応できるという意味ではありません。

美咲は銀行に、次の点を確認することにしました。

  • 契約上の借主をどのように表示するのか

  • 返済責任を負う財産の範囲

  • 借主としての個人責任を限定できるか。別途の個人保証や追加担保が必要か

  • 信託不動産へどのような担保を設定するのか

  • 既存の抵当権との関係

  • 美咲が退任・死亡した場合の手続と、美咲の個人責任の処理

  • 後継受託者への債務の承継と、旧受託者の個人責任の解消条件

後継受託者を定めておけば、旧受託者の個人責任まで当然になくなるわけではありません。美咲が亡くなった場合には、美咲の相続人が個人責任をどう扱うかも問題となるため、受託者の交代と個人の相続を分けて確認します。

「家賃で返す予定だから、美咲個人には関係がない」と考えることはできません。

個別の融資契約を確認して、初めて責任の範囲が分かります。

健一は、母が話していた「最後は二人で半分ずつ」という希望を思い出しました。

「将来の利益は二人で半分ずつでも、銀行への責任は美咲に残ることがあるんだな」

「そうです。受益権を半分ずつ取得することと、銀行に対する借入責任を半分ずつ負うことは別です」

美咲が自分の資金で返済した場合、信託財産から償還を受けられるか、その資金が残っているかも問題になります。健一が受益者になったというだけで、不足分の半分を当然に個人負担するわけではありません。

山田家は、収支の報告だけでなく、美咲がどのような責任を引き受けるのかも共有して、借入れを判断することにしました。

借入金は信託口口座で受け取り、家賃から返す

銀行から融資を受けられる場合、1,500万円は信託口口座で受け取ります。

山田家では、次のように資金を動かすことにしました。

  1. 新規借入金1,500万円を信託口口座で受け取る

  2. 管理用現金から工事へ充てる500万円を加える

  3. 合計2,000万円を工事資金として管理する

  4. 工事代金を信託口口座から支払う

  5. 元金と利息を信託口口座から返済する

  6. 管理用現金500万円は、固定資産税、通常修繕その他の管理資金として残す

美咲個人の生活口座を経由させる必要はありません。

借入金を美咲個人の口座へ入れたり、美咲の生活費と混ぜたりすれば、後から信託財産の借入金と支出を説明しにくくなります。

信託財産として受け取った借入金は、信託財産の中で管理する。

工事代金も返済金も、信託口口座を通す。

この資金管理と、美咲が契約上どこまで責任を負うかという問題は、分けて考えなければなりません。

今回検討しているのは、美咲が受託者として、信託のために行う借入れです。その権限に基づいて受け取る修繕資金は、信託財産として管理します。母が個人で借りたお金を後から追加信託する方法とは、区別して考えます。

年間家賃1,500万円で、借入金4,500万円を返せる?

新規融資を受けた後の借入金は、既存借入金約3,000万円と新規借入金1,500万円を合わせて約4,500万円です。

健一は数字を見て、心配そうに言いました。

「年間家賃が1,500万円なら、借入金4,500万円は家賃の3年分だ。返していけるのか」

税理士は答えました。

「年間家賃と借入金残高だけでは判断できません。家賃から、通常の経費と既存借入金の返済を差し引いた後に、どれだけ返済資金が残るかを確認します」

実際の返済可能性は、金利や返済期間によっても変わります。

空室、修繕、固定資産税、保険料なども考えなければなりません。

銀行は、新規借入金1,500万円だけを見るのではありません。

既存借入金約3,000万円の返済状況も含め、マンション全体の収支から返済を続けられるかを審査します。

山田家では、金利、返済期間、年間返済額を物語上の数字だけで決めず、銀行が実際の賃料明細、経費、既存返済予定表を確認したうえで判断することにしました。

借りられる金額ではなく、無理なく返せる金額を基準にする必要があります。

税理士が確認するのは、借主とお金の流れ

銀行との相談後、美咲は税理士にも資料を見せました。

「契約上は、私が受託者として借主になる可能性があります。それでも、借入れに関する税務処理は母の申告へ入るのですか」

「契約上の返済責任と、所得税上の帰属は分けて考えます」

税理士は答えました。

山田家では、マンションから生じる不動産所得は、受益者である和子に帰属します。

一方、実際に銀行と融資契約を結び、借入金を管理し、返済手続を行うのは、受託者である美咲です。

税理士は、少なくとも次の資料を確認します。

  • 金銭消費貸借契約書

  • 契約書上の借主の表示

  • 借入金額と資金使途

  • 借入金が入金された口座

  • 工事代金の請求書と支払記録

  • 元金と利息の内訳

  • 返済予定表

  • 各返済日の信託口口座の記録

  • 信託財産に関する借入金残高

借り入れた1,500万円は、返済を要するお金です。受け取ったことによって、和子の不動産所得が1,500万円増えるわけではありません。

返済した元金も、借りたお金を返しているだけなので、そのまま必要経費になるわけではありません。

一方、借入金が賃貸マンションの大規模修繕に使われたことを資料で確認できれば、利息は、その内容と期間に応じて和子の不動産所得の計算へ反映することを検討します。

「契約書では私が借主でも、税務上は母の不動産所得につながるのですね」

「そうです。ただし、そのためには、借入金が信託不動産の工事に使われ、信託口口座から返済されたことが分かる資料が必要です」

美咲が税務上の判断や帳簿作成を行うわけではありません。

美咲は受託者として、契約書、入出金記録、返済予定表、工事資料をそろえます。

税理士が、それらを確認して帳簿と和子の確定申告へ反映します。

将来の相続税で借入金を差し引けるとは限らない

「この借入金が残っている間に母が亡くなったら、相続税では債務として差し引けるのですか」

美咲が尋ねると、税理士はすぐに結論を出しませんでした。

「借入金が残っているというだけで、自動的に和子さんの相続税から差し引けるとは限りません」

「ただし、和子さん自身が銀行への借主ではないという理由だけで、控除できなくなるわけではありません。受益権の取得に伴って税務上帰属する信託の負債と、死亡時に確実な債務であるかを確認します。税務上の負債の帰属と、銀行に対する美咲さんの返済責任は別です。」

確認が必要なのは、相続開始時に実際に残っている借入金額だけではありません。

その借入れが信託財産の管理・運用のために負担されたものか、相続開始時に確実な債務と認められるか、誰が受益権を取得し、債務をどのように引き継ぐのかも確認する必要があります。

そのため、美咲は次の資料を継続して保管することにしました。

  • 融資契約書

  • 借入時の入金記録

  • 工事代金の支払記録

  • 元金と利息を分けた返済記録

  • 各年末の借入金残高

  • 返済予定表

  • 担保と保証に関する書類

  • 受託者交代時の取扱いに関する銀行の説明資料

具体的な債務控除の可否と金額は、和子の相続と受益権の承継を扱う回で改めて検討します。

本話では、将来確認できるように、借入れから返済までの記録を残すことにしました。

山田家の結論

山田家では、2,000万円の大規模修繕工事について、管理用現金1,000万円の全額を使うことはしませんでした。

自己資金として500万円を工事へ充て、残る500万円は、固定資産税、既存借入金の返済、通常修繕その他の管理に備えて残します。

不足する1,500万円については、既存借入金の取引銀行へ新規融資を申し込みます。

美咲が受託者として借りる方法について、具体的な融資条件、返済計画、個人責任を確認し、代替案と比較して判断します。

ただし、信託契約に借入権限があっても、銀行が当然に融資するわけではありません。

また、受託者として借りれば、美咲の固有財産に一切責任が及ばないとも限りません。

銀行との契約で、借主の表示、責任財産、担保、保証、受託者交代時の取扱いを確認します。

銀行は、年間家賃約1,500万円だけでなく、通常経費、既存借入金約3,000万円、新規借入金1,500万円、手元資金、保険及び担保価値を確認し、返済可能性を審査します。

融資が承認された場合、借入金は信託口口座で受け取り、工事代金と元利金も信託口口座から支払います。

美咲は契約書、入出金記録、返済予定表及び工事資料を管理し、税理士が借入金、利息及び返済を和子の不動産所得の帳簿と申告へつなげます。

受託者が借りることと、受益者の所得税へ反映することは、同じ話ではありません。

法律上の契約関係、銀行の融資実務、税務上の所得の帰属を、それぞれ分けて確認する必要があります。

今回のポイント

  • 大規模修繕工事2,000万円に対し、自己資金500万円、新規借入希望額1,500万円とする

  • 管理用現金1,000万円のうち、500万円は今後の管理のために残す

  • 既存借入金約3,000万円と合わせると、工事後の借入金は約4,500万円になる

  • 年間家賃約1,500万円は総収入であり、その全額を返済に使えるわけではない

  • 信託契約上の借入権限と、銀行が融資を承認するかどうかは別の問題

  • 受託者として借りる方法も、具体的な融資条件、返済計画、個人責任を確認し、代替案と比較して判断する

  • 信託自体が独立した法人として借主になるわけではない

  • 責任限定の合意がなければ、美咲の固有財産へ責任が及ぶ可能性がある

  • 借入金、工事代金、元利金は信託口口座で管理する

  • 借入金の元金は収入でも必要経費でもなく、利息は使途等を確認して和子の不動産所得へ反映する

  • 将来の相続税で借入金を差し引けるかは、その時点の債務と承継関係を確認して判断する

  • 美咲は資料と資金を管理し、司法書士が権限と法的責任を、銀行が融資条件と返済可能性を、税理士が資金計画と税務処理を確認する

次回予告 2,000万円の工事は、全部修繕費?

銀行は融資審査を進めるにあたり、美咲へ工事費の詳しい内訳を求めました。

ところが、管理会社から届いた見積書には、こう書かれているだけでした。

「大規模修繕工事一式 2,000万円」

銀行担当者は、美咲に言いました。

「一式のままでは、1,500万円を何に使うのか確認できません。工事項目ごとの見積書を用意してもらえますか」

美咲は、工事項目ごとの詳しい見積書を用意し、工事費の税務上の扱いも税理士へ確認することにしました。

次回は、工事費を修繕費として一度に必要経費へ入れる部分と、資本的支出として減価償却する部分に、どのように分けるのかを確認します。

前の話 第8話 長女が受け取る受託者報酬は、経費になる?

次の話 第10話 2,000万円の工事は、全部修繕費?