第8話 長女が受け取る受託者報酬は、経費になる?
「ここまでしてもらったのだから、報酬を払いたい」
和子の確定申告に必要な資料を税理士へ渡した日の夜、美咲は実家のダイニングテーブルで、残った書類をファイルへ戻していました。
管理会社の年間収支明細、管理用口座の取引明細、固定資産税や保険料の資料、修理関係の請求書、和子へ送金した金額の記録。
それぞれの書類には、美咲が内容を確認するために付けた付箋が残っています。
「家族信託を始めてから、美咲にずいぶん手間をかけさせているわね」
和子が、書類の束を見ながら言いました。
「管理会社から連絡が来れば対応して、支払いもして、健一にも報告してくれているでしょう。ここまでしてもらったのだから、受託者としての報酬を払いたいわ」
「報酬?」
「毎月十万円くらいではどうかしら」
月十万円なら、一年間で百二十万円です。
隣で話を聞いていた健一が、すぐに反応しました。
「その百二十万円は、マンションの経費にできるのかな。経費にできれば、母さんの不動産所得も少なくなるよね」
美咲は、少し考えてから言いました。
「でも、私が百二十万円を受け取ったら、今度は私の税金にも関係するんじゃない?」
信託財産から美咲へ受託者報酬を支払えるのか。
その報酬を、和子に帰属する不動産所得の計算で必要経費にできるのか。
そして、美咲が受け取った報酬をどのように申告するのか。
一つの報酬に、契約上の問題と、和子・美咲それぞれの税金が関係してきます。
三人は、信託契約書と美咲がまとめた資料を持って、税理士へ相談することにしました。
契約上払えても、経費になるとは限らない
後日、税理士は、まず信託契約書の受託者報酬に関する条項を確認しました。
山田家の信託契約には、美咲が受託者として行う業務について、信託財産から報酬を受け取ることができる旨が定められています。
「契約書に報酬のことが書いてあるなら、経費にできるということですか」
健一が尋ねました。
「いいえ。美咲さんが契約上、受託者報酬を受け取れることと、その報酬を税務上、必要経費にできることは別の問題です」
信託契約に報酬の定めがあるか、信託財産からどのような手続で支払うかは、信託法と契約の問題です。
一方、その報酬を和子の不動産所得の計算で差し引けるかは、所得税の問題です。
「契約書に書けば、税務上も自動的に経費になるわけではないんですね」
「はい。契約上の根拠を確認したうえで、美咲さんが実際に行った仕事、その仕事とマンション経営との関係、報酬額などを確認します」
契約条項や信託財産から報酬を支払う手続については、司法書士にも確認することになりました。
美咲は、何をしているのか
税理士は、美咲に尋ねました。
「家族信託を始めてから、具体的にどのような仕事をしていますか」
美咲は、思い出しながら一つずつ挙げました。
- 管理用口座の入出金を確認する
- マンションに関する費用を管理用口座から支払う
- 管理会社からの連絡を受け、必要な対応を決める
- 修繕について見積書や説明資料を集める
- 請求書や領収書を整理する
- 和子へ給付した金額と日付を記録する
- 半年ごとに健一へ管理状況を報告する
- 税理士へ渡す資料をそろえ、取引内容が分かるように管理メモを付ける
「今回の確定申告に向けて、通帳や請求書を集めて、何のお金か分かるようにメモを付けました」
美咲が説明すると、税理士はうなずきました。
「その資料を基に帳簿を整え、必要経費を判断し、不動産所得を計算するのは私たち税理士の仕事です。美咲さんが税務上の帳簿や申告書を作っているわけではありません」
美咲が行っているのは、受託者として信託財産を管理し、税理士が処理できるように資料と管理メモをそろえることです。
管理会社、受託者、税理士の仕事を分ける
次に税理士は、マンションの管理会社との契約内容を確認しました。
「家賃の集金や入居者からの連絡、建物の日常的な管理は、管理会社へお願いしています」
美咲が答えました。
「それなら、管理会社が行っている仕事まで、美咲さんの受託者報酬の根拠に含めることはできません」
山田家では、それぞれの役割を表にしてみました。
| 担当 | 主な役割 |
|---|---|
| 管理会社 | 家賃の集金、入居者対応、日常的な建物管理、定期的な管理報告 |
| 美咲 | 管理用口座の確認と支払い、管理会社の監督、重要な修繕の判断、和子への給付、健一への報告、税理士へ渡す資料と管理メモの準備 |
| 税理士 | 帳簿の作成、必要経費の判定、不動産所得の計算、和子の確定申告書の作成と申告 |
「管理会社や税理士に任せている仕事を、私の仕事として数えることはできないんですね」
「そうです。美咲さんが実際に担っている仕事だけを取り出して考えます」
受託者という肩書だけで、報酬の金額が決まるわけではありません。
「受託者報酬」という名前より、中身を見る
不動産所得の必要経費になるのは、原則として、不動産収入を得るために直接必要な費用や、その年の業務上の費用です。
支払ったお金に「受託者報酬」という名前を付けただけでは、必要経費になるとは限りません。
税理士は、確認する順番を三つに整理しました。
一つ目は、何に対する報酬なのかです。
美咲が、いつ、どのような受託者業務を行ったのかを確認します。
二つ目は、その仕事が賃貸マンションの管理や収入とどのように関係しているかです。
たとえば、管理用口座からマンションの費用を支払うことや、管理会社を通じて修繕を判断することは、賃貸マンションの管理に関係します。
一方、和子の買物や通院の付き添いなど、親子として行う生活上の手伝いまで、マンションの必要経費に含めることはできません。
三つ目は、仕事の内容、頻度、負担、責任に照らして、報酬額を説明できるかです。
「毎月十万円を振り込めば、その振込記録があれば十分ですか」
和子が尋ねました。
「振り込んだ事実は確認できます。しかし、振込記録だけでは、なぜ月十万円なのか、どの仕事に対する報酬なのかまでは分かりません」
報酬を支払った記録だけでなく、その金額を決めた根拠も必要になります。
親子だから確認する「生計」のこと
税理士は、さらに質問しました。
「和子さんと美咲さんは、一緒に暮らしていますか」
「いいえ。美咲は別の家で暮らしています」
「生活費や家計はどうしていますか」
美咲と和子は別居し、それぞれの収入で生活しています。家計も生活費も別で、和子が美咲の生活費を継続的に負担しているわけではありません。
「それなら、山田家では、原則として生計を一にしていない前提で検討します」
「別に住んでいれば、それで決まるんですか」
健一が尋ねました。
「いいえ。同居か別居かだけでなく、生活費を誰が負担しているか、家計がどのようになっているかという実態から判断します」
所得税法には、生計を一にする親族へ仕事の対価を支払った場合について、特別な取扱いがあります。
その規定が適用される場合、原則として、支払った側ではその対価を必要経費に算入せず、受け取った親族側でもその対価を所得として扱いません。
青色事業専従者給与など、一定の要件を満たした場合の特例はあります。
ただし、受託者報酬と定めれば、そのまま青色事業専従者給与になるわけではありません。賃貸事業の規模、専従性、届出、実際の勤務関係などを別に確認する必要があります。
生計が別でも、全額が経費とは限らない
「私たちは生計が別だから、年百二十万円を全部経費にできるんですね」
美咲が確認すると、税理士は首を横に振りました。
「生計が別であることは、親族間の支払いを検討する入口の一つです。それだけで、支払額の全額が必要経費になるわけではありません」
美咲が実際に行った仕事のうち、賃貸マンションの管理に関係する部分を確認します。
管理会社へ既に委託している仕事を重ねて数えることはできません。税理士が行った帳簿作成や申告の仕事も、美咲の仕事にはできません。
さらに、美咲の仕事の頻度、負担、責任などと比べて、月十万円という金額に合理的な根拠があるかを確認する必要があります。
「家賃が年間一千五百万円あるから、その何パーセントという決め方では駄目ですか」
健一が尋ねました。
「家賃の金額だけで決めると、美咲さんが実際に行った仕事との関係が見えません。仕事の内容と報酬額との関係を説明できるようにしましょう」
山田家では、月十万円という提案をいったん置き、美咲が残していた業務記録を基に、実際の仕事と報酬額を検討しました。
美咲が受け取った側の税金は?
和子の不動産所得で必要経費になるかどうかとは別に、美咲が受け取った報酬についても確認が必要です。
「私は、給与として申告するのですか」
美咲が尋ねました。
「受託者報酬だから給与、あるいは雑所得と、名前だけで決めることはできません。業務の行い方や、活動の規模、継続性、独立性など、実態を確認して所得区分を判断します」
一つの家族信託について、ほかの仕事とは別に副次的に受託者業務を行っている場合には、雑所得として扱う可能性があります。
一方、受託者業務を独立して継続的に行っている場合などは、活動の実態を踏まえた検討が必要です。
「お母さんの経費になるかだけではなく、私がどう申告するかも一緒に考えるのね」
「そのとおりです。支払う側と受け取る側の両方を確認します」
美咲が受け取った報酬額と、美咲の所得金額が必ず同じになるとも限りません。報酬を得るために美咲自身が負担した必要経費があれば、それも確認します。
美咲が残すのは、受託者としての仕事の記録
「それでは、私は何を記録すればいいですか」
美咲は税理士に尋ねました。
美咲が作るのは、税務上の帳簿や申告書ではありません。
受託者として、いつ、どのような仕事をしたのかが分かる記録です。
山田家では、次の資料を残すことにしました。
- 信託契約の受託者報酬に関する条項
- 美咲の業務範囲を決めた記録
- 管理会社との役割分担
- 月ごとの主な作業内容
- 報酬の対象期間と算定方法
- 報酬を支払った日と金額
- 和子と美咲の家計と生活費が独立していることが分かる事情
作業時間を一分単位で記録する必要はありません。
ただし、何を、いつ、どの程度行ったのかを、後から説明できる状態にしておく必要があります。
「私は受託者としての仕事を記録する。帳簿と申告書は、これまでどおり税理士さんにお願いするということですね」
「はい。その区別が大切です」
山田家が決めたこと
山田家では、美咲が残していた業務記録を基に、管理会社や税理士の仕事と重ならない受託者業務を確認しました。
業務の内容、頻度、負担、責任を踏まえ、受託者報酬は月5万円、年60万円と決めました。
信託契約の報酬条項と支払手続を司法書士に確認し、和子側の必要経費と美咲側の所得区分・申告については税理士と整理しました。
翌月から、信託口口座から美咲へ月5万円を支払い、業務記録と振込記録を残すことにしました。
「契約書に報酬と書いてあるだけでは、全部経費になるわけではないのね」
和子が言いました。
「仕事の内容と金額を説明できるようにして、お母さんと私の税金を両方確認する必要があるのね」
美咲も、自分が次に準備するものを理解できました。
一般的な注意
受託者報酬の取扱いは、信託契約に報酬の定めがあるかだけでは決まりません。
受託者が実際に行った業務、信託財産から生じる収入との関係、管理会社などへの委託範囲、報酬額の算定根拠、支払記録を確認する必要があります。
家族へ支払う場合は、支払う人と受け取る人が生計を一にするかも重要です。同居か別居かだけではなく、生活費の負担や家計の実態から判断します。
また、支払う側で必要経費になるかと、受け取る側で何所得になるかは、分けて確認します。
契約条項や受託者の権限は司法書士などの法律専門家へ、必要経費、親族間の支払い、所得区分及び申告は税理士へ確認する必要があります。
今回のポイント
- 信託契約上、報酬を支払えることと、所得税上の必要経費になることは別である。
- 受託者報酬は、名称ではなく、実際の業務内容、賃貸経営との関係及び金額の合理性で検討する。
- 管理会社や税理士が行っている仕事を、美咲の仕事として重ねて数えない。
- 生計を一にする親族への対価は、所得税法の特別な取扱いを確認する。
- 生計が別でも、支払額の全額が自動的に必要経費になるわけではない。
- 和子側の必要経費と、美咲側の所得区分及び申告を両方確認する。
- 美咲は受託者としての業務記録を残し、税務上の帳簿と申告は税理士が行う。
次回予告 銀行から「誰が借りるのですか」と聞かれた
受託者報酬について確認した後、美咲は約2,000万円の大規模修繕に必要な資金を整理しました。
信託する管理用現金1,000万円のすべてを工事へ使えば、その後の固定資産税、借入金の返済、通常の修繕に備える資金が不足します。
山田家では、管理用現金から500万円を工事へ充て、残る1,500万円について銀行へ融資を相談することにしました。
ところが、銀行の担当者から最初に確認されたのは、金利や返済期間ではありませんでした。
「この融資は、どなたが借りるのでしょうか」
次回は、信託不動産の修繕資金を借りる場合の借主、返済責任及び信託財産との関係を確認します。