CASE 10

第10話 2,000万円の工事は、全部修繕費?

銀行への融資相談を終えた美咲は、管理会社から届いていた2,000万円の工事見積書を、もう一度開きました。

工事資金の準備と並行して、工事を発注する際の手続と、税務上の扱いも確認しておく必要があります。

美咲は見積書を印刷し、税理士に相談することにしました。

工事を決める前に、確認しておきたいこと

「工事を先延ばしにして漏水事故が起きても困ります。でも、私が簡単に決めてよい金額ではありませんよね」

美咲が見積書を差し出すと、税理士は金額を見る前に尋ねました。

「まず、信託契約を確認しましょう。美咲さんには、このマンションの修繕や設備更新を決める権限がありますか」

山田家の信託契約には、美咲が受託者としてマンションを管理し、その維持に必要な修繕を行えることが定められていました。

一方、高額な支出について誰に報告し、どのような手続を取るかは、工事を決める前に確認しておく必要があります。

今回、山田家では、美咲が工事内容を確認したうえで、受益者である和子に説明し、健一とも情報を共有することにしました。

「工事が必要かどうかと、税務上どう処理するかは別の問題です。ただ、その前に、美咲さんが受託者として工事を発注できることを確認しておく必要があります」

税理士の説明を聞いて、美咲はうなずきました。

美咲が払う工事代は、誰の経費になる?

美咲には、もう一つ疑問がありました。

「施工会社と契約するのは、受託者である私ですよね。工事代金の振込みも私がします。それなら、この2,000万円は私の経費になるのでしょうか」

「いいえ。美咲さん個人の経費にはなりません」

税理士は、紙に二人の名前を書きました。

  • マンションを管理し、工事を実行する人――受託者の美咲
  • マンションから生じる所得が帰属する人――受益者の和子

家族信託では、実際に財産を管理する人と、その財産から生じる所得が帰属する人が異なることがあります。

山田家では、美咲がマンションの管理、契約、支払いを行います。しかし、信託不動産から生じる不動産所得は、受益者である和子に帰属します。

したがって、今回の工事費が修繕費になる場合、それを必要経費として反映するのは和子の不動産所得です。

資本的支出になる部分があれば、その部分について計算した減価償却費も、和子の不動産所得へ反映します。

「私が動いて、母の確定申告につながるのですね」

「そうです。だから、美咲さんが集めた工事資料を、税理士へ正確に渡せるようにしておく必要があります」

工事代は信託口口座から支払う

美咲は、工事代金の支払いについても確認しました。

「金額が大きいので、振込みの手続に時間がかかるかもしれません。私の預金から先に払って、あとで戻してもらう方法でもよいですか」

「今回は工事まで時間があります。原則どおり、信託口口座から支払えるように準備しましょう」

今回の工事は、美咲個人の建物に対するものではありません。信託財産である賃貸マンションの工事です。

そのため、工事代金は信託財産から支払うのが基本です。

美咲個人の預金、和子の生活費を管理する預金、マンションの賃料が入る信託口口座を混同すると、後から資金の流れを説明できなくなります。

やむを得ず美咲が立て替える場合には、支払った金額、対応する請求書、立替理由、信託財産から精算した日を記録します。

ただし、美咲が一時的に立て替えても、工事費が美咲自身の必要経費に変わるわけではありません。

美咲は、工事代金の支払方法と振込限度額について、早めに銀行へ確認することにしました。

「大規模修繕」なら、全部その年の経費?

その日の夜、美咲は見積書を健一にも見せました。

「2,000万円か。ずいぶん大きな工事だな」

健一は見積書を見ながら言いました。

「でも、大規模修繕工事と書いてあるんだろう。修繕費なら、2,000万円全部がその年の経費になって、母さんの税金もその分だけ減るのか」

「私も最初は、全部その年の経費になると思ったの。でも、そう簡単ではないみたい」

翌日、美咲がその話を税理士に伝えると、税理士は説明しました。

「まず、2,000万円が必要経費になっても、税金が2,000万円減るわけではありません。そして、見積書に『大規模修繕』と書かれているからといって、2,000万円全額が修繕費になるわけでもありません」

反対に、金額が2,000万円と大きいからといって、全額が資本的支出になるわけでもありません。

税務上の区分は、見積書の名称や総額ではなく、実際に行う工事の内容によって判断します。

元に戻す部分と、価値を高める部分

税理士は、美咲に二つの考え方を説明しました。

建物や設備の通常の維持管理や、傷んだ部分を元の状態へ戻すための費用は、修繕費になるのが基本です。

一方、建物や設備の価値を高めたり、耐久性を増したりする部分は、資本的支出になるのが基本です。

「今回の工事は、どちらなのでしょうか」

「この見積書だけでは分かりません。一つの工事の中に、修繕費になる部分と資本的支出になる部分が両方含まれている可能性があります」

美咲は、もう一度見積書を見ました。

そこには、「大規模修繕工事一式」としか書かれていません。

「工事一式」のままでは判断できない

美咲は管理会社へ連絡し、工事項目ごとの見積書を依頼しました。

さらに税理士から言われたとおり、次の資料も可能な範囲でそろえてもらうことにしました。

  • 建物や設備の劣化状況が分かる調査報告書
  • 施工前の写真
  • 交換する範囲、数量、単価
  • 従前と工事後の仕様を比較できる資料
  • 過去の修繕履歴
  • 工事完了後に作成される完了報告書と検収書

数日後、管理会社から詳しい内訳が届きました。

工事項目 金額 工事の内容
外壁のひび割れ補修・再塗装 600万円 劣化部分を補修し、従前と同程度の状態へ戻す
屋上防水の更新 400万円 劣化した防水層を、従前と同程度の性能へ戻す
給排水管の部分交換 300万円 腐食した部分を、同程度の機能のものへ交換する
給排水設備の更新・性能向上 700万円 更新範囲を広げ、耐久性や機能を従前より高める部分を含む
合計 2,000万円

外壁のひび割れ補修や再塗装は、劣化した部分を従前と同程度の状態へ戻す工事です。

屋上防水も、従前と同程度の防水性能へ戻すものでした。

給排水管の部分交換は、腐食した範囲を同程度の機能のものへ交換する工事です。

これらは、実際の工事内容や資料を確認したうえで、通常の維持管理又は原状回復として、修繕費になる可能性があります。

一方、700万円の給排水設備工事には、傷んだ設備を元の状態へ戻す部分だけでなく、更新範囲を広げ、従前より耐久性や機能を高める部分が含まれていました。

「では、この700万円が資本的支出ですか」

「まだ、そうとは決められません」

税理士は答えました。

700万円の中にも、通常の交換に必要な部分と、性能を高めるために追加された部分が混在している可能性があります。

そのため、施工会社に、原状回復に対応する部分と性能向上に対応する部分を合理的に分けられるか確認する必要があります。

新しい材料を使用したという理由だけで、700万円全額を資本的支出にするわけではありません。

美咲が集める資料、税理士が判断すること

「私が、どの工事を修繕費にするか決めるのですか」

美咲が尋ねると、税理士は首を振りました。

「美咲さんが決めるのは、工事をどのように進めるかです。税務上の区分は、資料を確認したうえで税理士が判断します」

美咲の役割は、工事の事実が分かる資料を集めることです。

美咲は、信託契約上の権限と必要な手続を確認し、管理会社や施工会社から見積書、仕様書、写真、契約書、完了報告書、検収書、請求書を受け取ります。

工事代金は信託口口座から支払い、その記録を残します。

税理士は、それらの資料を基に、修繕費と資本的支出を区分します。

そして、必要経費に算入する時期、資産の区分、耐用年数、減価償却費を判断し、和子の不動産所得の帳簿と確定申告へ反映します。

美咲が税務上の判断や帳簿作成まで担当するわけではありません。

しかし、美咲が工事資料を残していなければ、税理士も正確な判断ができません。

修繕費は和子の不動産所得の必要経費へ

税理士が資料を確認し、通常の維持管理や原状回復に当たると判断した部分は、修繕費として処理します。

その修繕費を必要経費へ反映するのは、美咲の申告ではなく、受益者である和子の不動産所得です。

また、単に工事代金を支払った日だけで、その年の必要経費になるとは限りません。

工事代金を支払う義務が成立しているか、工事が完了して検収が行われているか、金額を合理的に算定できるかなどを確認します。

修繕費と資本的支出の区分が明らかでない場合には、金額や工事周期などによる取扱いもあります。

ただし、山田家の工事では、最初から金額基準だけに当てはめるのではなく、まず工事項目を分け、実際の工事内容を確認することにしました。

資本的支出は信託財産の税務記録へ

建物や設備の価値を高めたり、耐久性を増したりする部分は、資本的支出として処理します。

資本的支出となった金額は、その年に全額を必要経費にするのではありません。

資産の取得価額として管理し、減価償却を通じて各年の必要経費へ反映します。

その減価償却費が反映されるのも、受益者である和子の不動産所得です。

税理士は工事資料を確認し、建物本体に関する支出なのか、建物附属設備に関する支出なのかなどを判断します。

そのうえで、適用する耐用年数と毎年の減価償却費を計算します。

美咲は、税理士が作成した減価償却の資料を、工事契約書や請求書と一緒に保管することにしました。

将来引き継げる記録を残す

「工事代を支払って、母の確定申告が終われば、この書類は片づけてもいいですか」

美咲が尋ねると、税理士は答えました。

「修繕費の資料も保存が必要ですが、資本的支出の資料は特に、その年だけで終わりません。翌年以降の減価償却にも使います」

資本的支出については、次の情報を継続して管理します。

  • 資本的支出となった金額
  • 建物や建物附属設備などの資産区分
  • 適用した耐用年数
  • 各年の減価償却費
  • 償却累計額
  • 未償却残高
  • 工事内容を裏付ける見積書、仕様書、写真
  • 工事契約書、請求書、検収書、支払記録

これらの記録は、三つの場面で必要になります。

一つ目は、和子のその年の確定申告です。

二つ目は、翌年以降の減価償却です。

三つ目は、将来、受益者が変わった場合や信託が終了した場合です。

受益者変更や信託終了時の具体的な税務処理は、そのときの事実と法令に基づいて改めて検討します。

その検討をするためにも、過去にどのような工事を行い、どのような税務処理をしてきたかが分かる資料を残しておかなければなりません。

美咲は、受託者の仕事が工事代金を振り込むことだけではないと分かりました。

税理士が正しく処理できる資料を集め、信託財産から支払い、その後の税務記録を将来へ引き継げる状態にしておくことも、受託者として必要な管理です。

山田家の結論

山田家では、約2,000万円の工事を、全額修繕費又は全額資本的支出とは決めませんでした。

まず、美咲が信託契約上の工事発注権限と、必要な報告・同意手続を確認します。

次に、管理会社と施工会社から、工事項目別の見積書、仕様書、施工前後の写真などを取得します。

工事代金は、原則として信託口口座から支払います。

集めた資料を基に、税理士が修繕費と資本的支出を区分します。

修繕費となる部分は、和子の不動産所得の必要経費へ反映します。

資本的支出となる部分は、資産の取得価額として管理し、減価償却を通じて和子の不動産所得の必要経費へ反映します。

美咲は、工事資料、支払記録、減価償却に関する記録を、信託財産の管理資料として保管します。

受託者が工事を実行し、その資料を税理士へ渡し、受益者の所得税の計算へつなげる。

それが、家族信託を使って賃貸マンションを管理する山田家に必要な流れでした。

今回のポイント

  • 工事を契約し、代金を支払うのは受託者の美咲
  • 不動産所得と必要経費が帰属するのは受益者の和子
  • 工事代金は、原則として信託口口座から支払う
  • 美咲が立て替えても、美咲自身の必要経費にはならない
  • 修繕費か資本的支出かは、総額や見積書の名称だけでは決まらない
  • 通常の維持管理や原状回復部分は、修繕費になるのが基本
  • 価値を高めたり耐久性を増したりする部分は、資本的支出になるのが基本
  • 一つの工事に、修繕費と資本的支出が混在することがある
  • 美咲は工事資料を集め、税理士が税務上の区分、帳簿、申告を担当する
  • 資本的支出の記録は、翌年以降や将来の受益者変更・信託終了に備えて保存する

次回予告 信託不動産の赤字は、年金やほかの所得から引ける?

税理士は、現時点で修繕費になる可能性がある部分と、さらに確認が必要な部分を分け、和子の不動産所得がどの程度になるかを試算しました。

その数字を見た健一が尋ねました。

「これだけ経費がかかったら、マンションの所得が赤字になることもありますよね。その赤字は、母さんの年金や、ほかの所得から引けるんですか」

税理士は、資料を閉じて答えました。

「そこは、家族信託だからこそ注意しなければならない税務上の制限があります」

次回は、信託不動産から生じた赤字と、和子の年金やほかの所得との関係を確認します。

前の話 第9話 銀行から「誰が借りるのですか」と聞かれた

次の話 第11話 信託不動産の赤字は、年金やほかの所得から引ける?