CASE 01

第1話 水漏れなのに、修繕工事を決められない

管理会社から、突然の電話

月曜日の朝、美咲のスマートフォンに、母が所有するマンションの管理会社から電話が入りました。

「山田マンションの1階で、水漏れが起きています」

1階の飲食店の天井から水が落ちてきたというのです。原因は、上の階につながる給排水管かもしれません。

管理会社は、ひとまず水を止め、被害が広がらないよう応急処置を手配していました。

ただし、漏水箇所を特定して本格的な修繕をするには、建物の所有者である母・和子の了承が必要です。

美咲は、すぐに母へ電話をかけました。

「お母さん、マンションの1階で水漏れがあったんだって。管理会社が修理していいか確認したいって」

「水漏れ? それは困るわね。早く直してもらって」

和子は、はっきり答えました。

美咲はその返事を管理会社に伝え、午後から現地調査をしてもらうことにしました。

ところが、それで話は終わりませんでした。

昨日は分かったと言っていたのに

翌日、管理会社から修繕内容と見積りが届きました。

応急処置だけでは再び漏れる可能性があり、傷んだ配管の一部を交換する必要があるとのことでした。

美咲は見積書を持って実家を訪ね、母に説明しました。

「昨日の水漏れだけど、きちんと直すには、この工事が必要なんだって」

和子は、見積書を見ながら首をかしげました。

「何の工事?」

「昨日、電話で話したでしょう。マンションの1階で水漏れがあったって」

「そんな電話、あったかしら」

美咲がもう一度説明すると、和子は事情を理解しました。

しかし、工事費の欄を見ると、今度は不安そうな顔をしました。

「こんなにかかるの? 本当に今すぐやらないといけないの?」

「このままだと、また水が漏れるかもしれないんだって」

「でも、知らない工事にお金を払うのは怖いわ。私は契約したくない」

昨日は「早く直して」と言っていたのに、今日は工事そのものを覚えていません。

説明をすれば、和子は内容を理解し、自分の考えを話すことができます。ただ、その理解が翌日も同じように続くとは限りませんでした。

美咲は、見積書を持ったまま動けなくなりました。

今回の水漏れは、応急処置でひとまず止まっています。

しかし、このマンションでは、もっと大きな修繕も控えていました。

建築から25年。外壁や屋上防水、給排水管の工事をまとめて行えば、2,000万円ほどかかる可能性があります。

小さな修繕のたびに話が止まってしまうなら、2,000万円の工事を決めるときはどうなるのでしょう。

「娘の私が決めてはいけないんですか」

美咲は管理会社に電話をかけました。

「母は昨日、工事をしていいと言っていました。娘の私が代わりに契約することはできませんか」

担当者は、少し間を置いて答えました。

「美咲さんに連絡窓口になっていただくことはできます。ただ、マンションの所有者は和子さんです。娘さんだからというだけで、和子さんに代わって工事契約を結べるわけではありません」

美咲は、母のマンション管理を以前から手伝っていました。

管理会社からの電話を受け、入居者からの相談を聞き、修繕の立会いをすることもあります。

それでも、手伝うことと、所有者に代わって契約を決めることは別です。

和子がその都度内容を理解し、自分で判断できるうちは、和子自身が契約できます。代理人を定める方法も考えられます。

しかし、将来、和子が契約内容を理解して意思を示すことが難しくなれば、その時点で新しい契約や代理権の設定をすることも難しくなります。

「今はまだ、お母さんと話し合える。でも、いつまで同じようにできるんだろう」

美咲は、初めてそのことを現実の問題として考えました。

「美咲だけで決めるのは違うだろう」

その夜、美咲は名古屋に住む兄の健一へ電話をしました。

水漏れのこと、母が前日の説明を覚えていなかったこと、修繕契約が止まりかけていることを順番に話しました。

「これからは、私がお母さんに代わってマンションを管理できるようにした方がいいのかもしれない」

すると、健一はすぐには賛成しませんでした。

「美咲が動いてくれているのは分かっている。でも、美咲だけで何でも決める形になるのは違うだろう」

「私だって、好きで一人で決めたいわけじゃないよ」

「そういう意味じゃない。マンションは大きな財産だし、借入れも残っている。修繕にいくら使ったのか、家賃がどうなっているのか、僕にも分かるようにしてほしいんだ」

和子のマンションには、約3,000万円の借入れが残っています。

年間の家賃収入は約1,500万円ありますが、修繕費や管理費、固定資産税、借入金の返済もあります。

美咲が管理を担うとしても、家族に何も知らせず、一人で決める仕組みでよいわけではありません。

健一が心配しているのは、家族信託そのものではなく、美咲一人に権限と情報が集まることでした。

「分かった。私も、どうするのがいいのか分からない。まず先生に相談してみる」

美咲は、母の確定申告を担当している税理士へ連絡しました。

税理士は、すぐに答えを出さなかった

数日後、美咲は和子、健一と一緒に税理士事務所を訪れました。

美咲は、水漏れが起きてからの経緯を説明しました。

「これからも、管理会社とのやり取りは私ができます。でも、契約のたびに同じことが起きたら、マンションの管理が止まってしまいます。今のうちに、何か準備できることはないでしょうか」

税理士は、すぐに特定の方法を勧めませんでした。

「考えられる方法はいくつかあります。ただ、どの方法がよいかを決める前に、確認しなければならないことがあります」

本人が元気なうちに代理人を定める方法もあれば、家族信託を利用して、財産の管理を家族に任せる方法もあります。

将来、判断能力が低下した場合には、成年後見制度が必要になることもあります。

ただし、それぞれ目的も仕組みも異なります。

「山田家の場合は、家族信託も検討の候補になります。もっとも、法的にどのような契約にするかは、司法書士などの法律の専門家と一緒に確認する必要があります」

「家族信託、ですか」

美咲は、その言葉を初めて自分たちの問題として聞きました。

「たとえば、お母さまがマンションを信託し、美咲さんが受託者として管理する仕組みが考えられます。契約の内容によっては、美咲さんが修繕工事の契約や家賃の管理を担えるようになります」

それを聞いた美咲は、少し安心しました。

しかし、税理士の説明はそこで終わりませんでした。

「ただし、家族信託は、娘さんの名前を契約書に書けば終わるものではありません」

契約書を作る前に、税務を確認する

税理士は、机の上に一枚の紙を置きました。

そこに、和子、美咲、マンションの三つを書きました。

「家族信託では、財産を管理する人と、その財産から利益を受ける人が分かれることがあります。税務では、この『誰が利益を受けるのか』が重要です」

仮に、美咲が受託者としてマンションを管理しても、家賃を受け取り、その利益を受けるのが和子であれば、その関係を前提に税務を検討します。

一方、契約の作り方によっては、和子から美咲へ経済的な利益が移ったと判断され、贈与税の問題が生じる可能性があります。

「では、美咲に管理を任せただけで、贈与税がかかるんですか」

和子が心配そうに尋ねました。

「管理を任せることと、マンションの利益を美咲さんへ渡すことは同じではありません。誰を受益者にするのか、家賃を誰の所得として申告するのか、信託が終わったときに財産を誰が受け取るのか。契約内容を見ながら整理する必要があります」

家族信託の契約書は、法律上の権限を決めるだけの書類ではありません。

その内容によって、所得税、贈与税、相続税の扱いを検討する必要があります。

だからこそ、契約書ができてから税理士に見せるのではなく、設計の段階から税務を確認することが大切です。

さらに、和子のマンションには約3,000万円の借入れがあります。

マンションを信託する場合、現在の融資契約や担保の状況を確認し、必要に応じて金融機関と事前に相談しなければなりません。

「マンションだけを見て決めるのではなく、借入れや管理用のお金も含めて考えましょう。ただし、お母さまの自宅や生活費の預金まで、何もかも信託に入れる必要があるとは限りません」

山田家では、マンションと、その管理・修繕に使う1,000万円を信託の候補とし、自宅と日常生活に使う預金は信託の外に残す方向で検討することになりました。

まだ、決定ではありません。

司法書士に法的な設計を相談し、金融機関にも確認したうえで、税務上の影響を一つずつ検討していく必要があります。

和子さんは、何を望んでいるのか

税理士は、和子に尋ねました。

「和子さんは、このマンションを今後どうしていきたいですか」

和子は、少し考えてから答えました。

「夫が残してくれたマンションですから、できればきちんと手入れをして、入居している人に迷惑をかけないようにしたいです」

「管理を美咲さんに任せることについては、どう思いますか」

「美咲には、ずっと手伝ってもらっています。任せられることは、任せたいと思っています」

和子は、美咲の方を見ました。

「でも、美咲一人に全部背負わせるのも心配です。健一にも、何をしているのか分かるようにしてほしいです」

健一もうなずきました。

「それなら僕も安心できる。半年に一度でも、家賃や修繕費の報告をもらえればいい」

美咲は、ようやく兄が何を心配していたのか分かりました。

美咲が管理を担うことと、美咲だけで管理することは同じではありません。

受託者に権限を持たせるなら、その権限をどのように使ったかを家族へ伝える仕組みも必要です。

家族信託は、単に財産の名義や管理者を変える制度ではありません。

母の希望、美咲の役割、健一への報告、マンションの修繕、借入れ、そして税務。

それらを一つの仕組みとして組み立てていく必要があります。

山田家の結論

山田家は、その場で家族信託を契約するとは決めませんでした。

まず、和子が自分の意思を伝えられる今のうちに、次の点を確認することにしました。

  • 和子がマンションを今後どう管理してほしいのか
  • 美咲に、どこまでの権限を持たせるのか
  • 健一へ、どのように管理状況を報告するのか
  • マンションと管理用資金のどこまでを信託の対象にするのか
  • 約3,000万円の借入れについて、金融機関への確認が必要か
  • 家賃収入を誰の所得として申告するのか
  • 契約によって贈与税などの問題が生じないか

司法書士には契約と登記を、税理士には税務を、金融機関には借入れと担保の取扱いを確認します。

家族信託を使うかどうかは、それらを確認してから決めることになりました。

一般的な注意

親の物忘れが増えたからといって、直ちに契約ができなくなるわけではありません。

重要なのは、契約をする時点で、本人が契約の内容を理解し、自分の意思で判断できるかどうかです。

一方で、親族であるというだけで、子が親の財産について自由に契約できるわけでもありません。

家族信託を検討する場合は、本人の意思と判断能力を確認したうえで、対象財産、受託者の権限、受益者、家族への報告方法、借入れ、金融機関との関係、税務上の取扱いを個別に検討する必要があります。

特に、信託契約の内容によっては、所得税、贈与税、相続税の扱いが変わる可能性があります。

法務だけ、税務だけで判断せず、必要に応じて司法書士、税理士、金融機関などと連携して進めることが大切です。

今回のポイント

  • 水漏れへの応急対応と、本格的な修繕工事の契約は分けて考える
  • 子が管理を手伝っていても、当然に親の代理で契約できるわけではない
  • 家族信託は、本人が契約内容を理解して意思を示せるうちに検討する必要がある
  • 受託者に権限を持たせるだけでなく、家族への報告方法も考える
  • 借入れのある不動産を信託する場合は、金融機関との関係を確認する
  • 契約書を作る前に、誰が利益を受けるのかを整理し、税務上の影響を確認する

次回予告 長女を受託者にすると、贈与になる?

美咲がマンションを管理することについて、和子には一つ気になることがありました。

「マンションを美咲に任せたら、美咲に贈与したことになるの?」

財産を管理する人と、その財産から利益を受ける人。

この二つを分けて考えなければ、家族信託の税務は理解できません。

次回は、長女の美咲を受託者にした場合に、贈与税がかかるのかを考えます。