CASE 12

第12話 買いたい人が現れた。今、マンションを売るべきか?

大規模修繕工事が終わってしばらくしたころ、美咲のもとへ管理会社から連絡がありました。

工事後のマンションを見た不動産会社が、購入に関心を示しているといいます。

「現時点の提示額は、1億3,000万円です。売却を検討されるのであれば、具体的な条件を出したいそうです」

美咲は、電話を切った後も、管理会社から送られてきたメールを見つめていました。

少し前まで、美咲は2,000万円の大規模修繕工事をどう進めるか、工事代金のうちいくらを銀行から借りるかを考えていました。

今度は、そのマンションを売らないかという話です。

1億3,000万円で売却できれば、借入金を返済しても、まとまった現金が残るかもしれません。古くなっていく建物の管理や、将来の修繕について心配する必要もなくなります。

母のためには、現金に換えておいた方が安心なのではないか。

一方で、このマンションは、和子が夫と一緒に建て、長年守ってきた財産です。

美咲だけで売却を決めてよいのか。売った場合、誰にどのような税金がかかるのか。借入金を返した後、信託財産にはいくら残るのか。

美咲は、まず税理士と司法書士に相談することにしました。

売買契約を結ぶのは誰?

「このマンションを売るとしたら、売主は母ですか。それとも、登記名義人になっている私ですか」

美咲が尋ねると、司法書士は信託契約書と登記事項証明書を確認しました。

「売買契約を結ぶのは、受託者である美咲さんです」

マンションの登記には、「受託者 山田美咲」と記載されています。

山田家の信託契約では、美咲にマンションを管理する権限だけでなく、必要に応じて売却する権限も与えられていました。

そのため、売買契約を結び、買主への所有権移転登記を行うのは美咲です。

ただし、美咲が自分のマンションを売るわけではありません。

美咲は受託者として、受益者である和子のために信託財産を処分します。

「契約書には、私の名前を書くのですね」

「はい。ただし、美咲さん個人としての売却ではなく、受託者としての売却であることを明確にします。契約書の表記や必要書類は、買主や金融機関とも事前に確認します」

美咲にはマンションを売却する権限があります。

しかし、売却する権限があることと、今売ることが和子のためになるかどうかは、別の問題でした。

美咲が売るのに、税金は和子にかかる

美咲は、続いて税理士に尋ねました。

「売買契約をするのが私なら、売却したときの税金も私にかかるのでしょうか」

「いいえ。山田家の信託では、売却による所得は受益者である和子さんに帰属します」

信託不動産を管理し、契約や登記の手続を行うのは受託者の美咲です。

一方、その信託財産から生じる所得は、原則として受益者である和子に帰属します。

マンションの家賃が和子の不動産所得になるのと同じように、マンションを売却して生じる譲渡所得も、和子の所得として計算します。

内容 担当・帰属先
売買契約と登記手続 受託者の美咲
売却代金の受領と管理 受託者の美咲
譲渡所得の帰属と申告 受益者の和子
売却後の現金 和子を受益者とする信託財産

「私が契約と入金の手続をして、その結果を母の確定申告に反映するのですね」

「そうです。家賃や修繕費のときと同じように、実際に管理する人と、税務上の所得が帰属する人を分けて考えます」

借入金を返した残りが、譲渡所得ではない

美咲は、手元のメモを見ながら言いました。

「売却代金が1億3,000万円で、借入金の残高が約4,300万円なら、差額は8,700万円です。この8,700万円に税金がかかるのでしょうか」

税理士は首を振りました。

「借入金の返済と、譲渡所得の計算は別です」

譲渡所得は、基本的に次のように計算します。

売却代金-取得費-譲渡費用=譲渡所得

これに対して、実際に売却した後、信託財産として残る現金は、次のように計算します。

売却代金-売却費用-税金-借入金の返済額=売却後に残る現金

借入金を返済すれば、手元に残る現金は減ります。

しかし、借入金の元本返済額を、譲渡所得からそのまま差し引くことはできません。

反対に、取得費や譲渡費用は譲渡所得の計算では差し引きますが、そのすべてが売却時に支払う現金とは限りません。

「税金を計算する表と、売った後のお金を計算する表が必要なのですね」

「はい。二つを分けて確認しないと、税額も手残りも正しく判断できません」

取得費は、信託を始めた日の時価ではない

「取得費というのは、信託を始めたときのマンションの価格ですか」

美咲が尋ねると、税理士は答えました。

「いいえ。信託を始めたときに、和子さんから美咲さんへマンションを売ったわけではありません」

山田家では、和子が委託者兼受益者となり、美咲が受託者になっています。

信託を始めたとき、マンションの登記名義は美咲へ移りました。

しかし、その時点で通常の売買が行われたわけではありません。そのため、信託開始時の時価を、新しい取得価額として使うことはできません。

売却時の取得費は、和子がマンションを取得したときの取得価額を引き継いで計算します。

所有期間についても、原則として和子が取得した時期を引き継いで判定します。

「登記名義が私に変わっても、取得価額や取得時期が新しくなるわけではないのですね」

「そのとおりです」

大規模修繕の記録も、取得費の計算に使う

税理士は、和子がマンションを取得したときの売買契約書や領収書、これまでの減価償却資料を確認しました。

土地については、取得価額のうち土地に対応する金額を確認します。

建物については、取得時の金額をそのまま使うのではなく、売却までの減価償却を反映します。

さらに、2,000万円の大規模修繕工事についても確認が必要でした。

工事完了後の仕様書と施工範囲を確認した結果、1,000万円は修繕費として、その年の和子の不動産所得の必要経費へ反映しました。

残りの1,000万円は資本的支出として管理し、その後の減価償却を行っています。

資本的支出となった部分は、売却時の取得費にも関係します。ただし、1,000万円全額をそのまま加えるのではなく、売却までの減価償却を反映します。

税理士は、これまでの資料を基に、売却時点の取得費を約1億1,400万円と試算しました。

「工事が終わったときに、修繕費と資本的支出を分けて記録しておいてよかったですね」

美咲が言うと、税理士はうなずきました。

「工事代金を支払った記録だけでは足りません。どの部分を資本的支出として管理し、その後いくら減価償却したかという記録が、売却時にも必要になります」

1億3,000万円で売った場合の税金

税理士は、現時点で確認できる資料を使い、売却した場合の譲渡所得を試算しました。

項目 概算額 内容
売却代金 1億3,000万円 買主から提示された金額
取得費 △1億1,400万円 取得資料、減価償却、資本的支出を反映した概算
譲渡費用 △450万円 仲介手数料などの概算
譲渡所得 1,150万円 売却代金から取得費と譲渡費用を控除
所得税・住民税 約230万円 長期譲渡所得として計算した概算

実際の税額は、正式な売却価格、仲介手数料などの譲渡費用、売却時点までの減価償却、売却時点の法令などによって変わります。

また、長期譲渡所得か短期譲渡所得かを判定するときも、信託を始めた日から数えるわけではありません。

和子がマンションを取得した時期を引き継いで判定します。

山田家のマンションは、和子が長年所有してきたため、今回の試算では長期譲渡所得として計算しました。

税金と借入金を払った後、いくら残る?

次に税理士は、税金と借入金の返済を含めて、売却後に残る現金を試算しました。

項目 概算額
売却代金 1億3,000万円
譲渡費用 △450万円
所得税・住民税 △約230万円
借入金の返済 △約4,300万円
売却後に残る現金 約8,020万円

山田家では、信託財産として別に約500万円の管理用現金を残しています。

そのため、マンションを売却し、税金と借入金を支払った後、信託財産には合計で約8,500万円の現金が残る見込みです。

健一は、試算表を見ながら言いました。

「8,500万円ほど残るなら、売って現金にしておいた方が安心じゃないか。もう大きな修繕の心配もしなくて済むだろう」

確かに、売却すれば借入金を返済できます。

建物の維持管理、入居者への対応、空室、将来の修繕を心配する必要もなくなります。

一方で、売却すれば、マンションから得ている年間約1,500万円の賃料収入もなくなります。

その全額が自由に使える利益ではありません。管理費、固定資産税、修繕費、借入金の返済などが必要です。

それでも、マンションは長年、和子の生活を支えてきた財産でした。

売却代金も、和子のための信託財産

「売却後に8,500万円ほど残るなら、そのお金はどうするのですか」

美咲が尋ねました。

「売却代金も、引き続き信託財産として管理します」

マンションを売却しても、信託が直ちに終了するとは限りません。

山田家の信託契約では、マンションを売却して得た代金も、信託財産として管理します。

信託財産が、不動産から現金へ姿を変えるだけです。

売却代金を美咲や健一が分けて受け取れるわけではありません。

美咲は受託者として、売却代金を信託口口座で管理し、和子の生活費、医療費、介護費など、和子のために使用します。

「売れば、私たちのお金になるわけではないのですね」

「はい。売却前も売却後も、和子さんのための財産であることは変わりません」

美咲は、売却後に残る金額だけでなく、そのお金を誰のために、どのように管理するのかまで考えなければならないと分かりました。

「今は、まだ売らないでほしい」

税金と売却後の資金が分かった後、美咲は和子に話をしました。

「お母さん、マンションを1億3,000万円で買いたいという人がいるの」

和子は、しばらく考えてから尋ねました。

「売らないといけないの」

「売らないといけないわけじゃないよ。買いたいという話が来ただけ。売れば借金を返して、残ったお金をお母さんのために管理できる。でも、家賃は入らなくなるし、マンションも手放すことになる」

和子は、窓の外を見ながら言いました。

「あのマンションは、お父さんと一緒に建てたものだからね。今は、まだ売らないでほしい」

マンションは、和子にとって、金額だけで測れる財産ではありませんでした。

夫と一緒に計画し、借入金を返しながら守ってきた財産です。夫が亡くなった後も、マンションの賃料が和子の生活を支えてきました。

美咲は、母の言葉を聞き、1億3,000万円という金額だけで売却を決めることはできないと思いました。

売却権限があっても、必ず売るわけではない

美咲は、和子との会話を司法書士に伝えました。

「信託契約上、私には売却する権限があります。それでも、母が今は売らないでほしいと言っているなら、その気持ちも考えなければいけませんよね」

「そうですね。売却する権限があることと、今売ることが和子さんの利益にかなうことは、同じではありません」

受託者は、信託契約に従い、受益者のために信託財産を管理・処分します。

高い価格を提示されたからといって、必ず売却しなければならないわけではありません。

反対に、本人に思い入れがあるからといって、将来どのような状況になっても売却できないわけでもありません。

売却価格、税金、借入金、売却後に残る資金、今後の収入、管理負担、将来の修繕、和子の生活に必要な資金、そして和子自身の意向を全体として考えます。

「私が自分のために売るのではなく、母のためにどうするかを決めるのですね」

「そのとおりです」

山田家は、今回は売らないことにした

美咲と健一は、税理士の試算と司法書士の説明を基に、もう一度話し合いました。

1億3,000万円で売却すれば、税金、売却費用、借入金を支払った後に、約8,000万円の現金が残る見込みです。

別に管理している現金と合わせれば、信託財産には約8,500万円が残ります。

借入金を返済でき、今後の管理や修繕の負担もなくなります。

一方で、マンションから得ている賃料収入はなくなります。

そして、和子は今の時点では、長年守ってきたマンションを手放すことを望んでいませんでした。

買主からの話は、正式な売買契約ではなく、購入を検討したいという段階の打診です。

山田家では、税金や売却後に残るお金だけでなく、和子の生活、今後の収入、管理負担、マンションへの思いを全体として考えました。

その結果、今回の1億3,000万円の打診には応じず、マンションの管理を続けることにしました。

ただし、将来も絶対に売らないと決めたわけではありません。

和子の状況、建物の状態、管理の負担、借入金、売却条件が変われば、その時点で改めて判断します。

美咲は、今回作成した取得費、税額、借入金、売却後に残る資金の資料を、信託財産の管理記録として保管しました。

今回のポイント

  • 信託不動産の売買契約と登記手続を行うのは、受託者である美咲

  • 売却による譲渡所得は、受益者である和子に帰属する

  • 売却代金は、美咲個人の財産ではなく、引き続き信託財産として管理する

  • 譲渡所得は、売却代金から取得費と譲渡費用を差し引いて計算する

  • 借入金の元本返済額は、譲渡所得から直接差し引くことはできない

  • 取得費と取得時期は、原則として和子の取得価額と取得時期を引き継ぐ

  • 建物の取得費には、減価償却と資本的支出を反映する

  • 税金の計算と、借入金返済後に残る現金の計算は分けて考える

  • 売却権限があっても、金額だけで売却を決めるものではない

  • 和子の生活、今後の収入、管理負担、本人の意向を全体として考える

次回予告 登記は長女名義。それでも相続税がかかる?

1億3,000万円の購入打診を断った後も、美咲は受託者としてマンションの管理を続けました。

ところが、その後、和子が亡くなります。

マンションの登記事項証明書には、受託者である美咲の名前が記載されたままです。

健一は、その登記を見ながら尋ねました。

「このマンションは美咲の名義になっているよな。それでも、母さんの相続税の対象になるのか」

次回は、受益者である和子が亡くなったとき、信託財産が相続税でどのように扱われるのかを確認します。

前の話 第11話 信託不動産の赤字は、年金やほかの所得から引ける?

次の話 第13話 登記は長女名義。それでも相続税がかかる?