第13話 登記は長女名義。それでも相続税がかかる?
マンションの売却を見送ってから、3年が過ぎました。
美咲は受託者として、家賃の入金を確認し、管理会社への支払いを行い、必要な資料を税理士へ渡す生活を続けていました。
和子は次第に体調を崩し、ある冬の日、静かに息を引き取りました。
葬儀を終えた後、美咲と健一は、信託契約書やマンションの資料を税理士の事務所へ持っていきました。
書類を広げていた健一が、登記事項証明書を見ながら言いました。
「このマンションの名義は、今も美咲のままなんだな」
「受託者になったときから、私の名前になっているわ」
「それなら、母さんが亡くなっても、このマンションは相続財産にならないのか?」
美咲も答えられませんでした。
自分はマンションを相続したつもりはありません。母が亡くなった後も、受託者として管理を続けているだけです。
しかし、信託契約では、和子の死亡後、健一と美咲が受益権を2分の1ずつ取得することになっていました。
マンションの登記名義は美咲のままです。
それでも、相続税はかかるのでしょうか。
母が亡くなっても信託は続く
税理士は、最初に信託契約書を確認しました。
山田家の信託は、和子が亡くなっただけでは終了しません。
美咲は引き続き受託者としてマンションを管理します。
一方、和子が持っていた受益権は、信託契約の定めに従い、健一と美咲が2分の1ずつ取得します。
「マンションの管理を続ける人は美咲さんです。ただし、マンションから経済的な利益を受ける人は、和子さんから健一さんと美咲さんへ変わります」
「私は登記に載っていないのに、マンションの権利を半分持つのですか」
健一が尋ねました。
「マンションそのものの共有持分を取得するのではありません。健一さんが取得するのは、信託契約に基づく受益権です」
変わらない登記と、変更する登記
信託マンションの所有権の登記名義人は、受託者である美咲です。
和子が亡くなっても、美咲が受託者を続けるため、所有権の登記名義を健一と美咲の共有名義へ変更するわけではありません。
ただし、登記上、何も手続がないわけではありません。
信託目録には受益者などの信託に関する事項が記録されています。和子の死亡によって受益者が健一と美咲へ変わったため、その変更を反映するために必要な信託登記の手続を司法書士へ確認します。
所有権の登記名義は、受託者である美咲のまま。
信託目録上の受益者は、和子から健一と美咲へ変更される。
同じ登記の中でも、確認する内容が違います。
「登記名義が私のままだからといって、私が一人でマンションを相続したことにはならないのですね」
「そうです。美咲さんには、受託者と受益者という二つの立場があります。この二つを分けて考える必要があります」
相続したのは、マンションではなく受益権?
民事上、健一と美咲は、和子の死亡をきっかけに、信託契約の定めに基づいて受益権を取得します。通常の相続としてマンションの所有権を取得するわけではありません。一方、相続税法では、この受益権を和子から遺贈により取得したものとみなして、相続税の対象とします。
しかし、相続税では「受益権」という名称だけを見て、一つの権利としてまとめて評価するわけではありません。
受益者が信託に関する権利を取得した場合、信託財産の中にある資産と負債を取得又は承継したものとして税務上の取扱いを検討します。
山田家の信託財産には、賃貸マンション、信託口口座の預金などがあります。
その一方で、マンションに関係する借入金も残っています。
これらを受益割合に応じて、健一と美咲がそれぞれ2分の1ずつ取得又は承継したものとして整理します。
「登記に自分の名前がないから、相続税にも関係しないということではないのですね」
「はい。相続税では、登記名義だけではなく、和子さんの死亡によって誰が信託の経済的利益を取得したかを見ます」
登記名義人と相続税を申告する人は一致しない
マンションの登記名義人は、美咲です。
しかし、美咲一人がマンションの価値について相続税を申告するわけではありません。
健一と美咲は、和子の死亡によって受益権をそれぞれ2分の1取得しました。
そのため、信託財産の資産と負債を確認し、それぞれの受益割合に応じて相続税申告へ反映します。
美咲については、同じ人物が二つの立場を持つことになります。
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受託者としてマンションを管理する立場
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受益者として経済的利益の2分の1を受ける立場
美咲名義で登記されているのは、受託者としての立場によるものです。
相続税の対象となるのは、和子の死亡によって美咲が受益者として取得した経済的利益です。
1億3,000万円で売れそうでも、相続税評価額とは別
和子が亡くなる3年前、山田家にはマンションを1億3,000万円で購入したいという打診がありました。
健一は、そのときの金額を思い出しました。
「マンションの価値は、1億3,000万円として申告するのですか」
税理士は首を振りました。
「1億3,000万円は、購入希望者が示した売却価格です。相続税申告で使う評価額とは別です」
土地と建物は、それぞれ相続税の評価方法に従って評価します。
山田家のマンションについて確認した結果、信託不動産の相続税評価額は約1億2,000万円となりました。
| 金額 | 意味 |
|---|---|
| 1億3,000万円 | 3年前に示された購入打診額 |
| 約1億2,000万円 | 和子の死亡時における相続税評価額 |
信託財産だから特別な売値を使うわけではありません。
信託財産の中に土地と建物があれば、その土地と建物を相続税のルールに従って評価します。
借入金3,500万円は差し引ける?
和子が亡くなった時点で、マンションに関係する借入金は約3,500万円残っていました。
健一は、税理士が作った一覧を見ながら尋ねました。
「1億2,000万円から3,500万円を引けば、残りは8,500万円ですね。それを二人で半分ずつと考えればよいのですか」
単純に差し引けば、次のようになります。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 信託不動産の相続税評価額 | 約1億2,000万円 |
| 借入金残高 | 約3,500万円 |
| 単純差引額 | 約8,500万円 |
ただし、借入金が残っているというだけで、相続税の計算上、当然に全額を差し引けるわけではありません。
その借入金が、信託財産に属する負債として承継されたものかを確認する必要があります。
借入金が認められる判断基準
税理士は、銀行との金銭消費貸借契約書や返済予定表を確認しました。
約3,500万円は、信託設定前からの借入れと、大規模修繕のために美咲が受託者として行った借入れの残高を合わせた金額です。全額を大規模修繕のために借りたわけではありません。
税理士は、二つの借入れを分けて確認しました。既存借入れについては、信託設定時にどのような取扱いを定めたか、銀行に対する債務者は誰か、和子の死亡後の債務の承継をどう扱うかを、契約書等から確認します。
大規模修繕のための借入れは、美咲が受託者として行ったものです。融資金は信託口口座へ入り、工事代金に使われ、その後の返済も同口座から行われていました。信託財産責任負担債務に該当するかを、借入権限、契約内容、資金使途から確認します。
死亡時の残高は、それぞれの残高証明書と返済記録を照合します。信託口口座から返していたという事実だけで、二つの借入れを同じ法律関係として扱うことはできません。
確認するのは、主に次の点です。
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信託契約上、美咲に借入れを行う権限があったか
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借入金が信託口口座へ入金されているか
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借入金が信託不動産の取得、管理、修繕などに使われているか
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返済が信託財産から行われているか
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和子の死亡時に借入金が確実に存在していたか
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受益権の取得に伴い、その負債を誰がどの割合で承継したと扱われるか
美咲個人の生活費のための借入れであれば、信託財産に対応する負債として扱うことはできません。
税理士は、各借入れについて死亡時に確実な債務であるかを確認し、通常の相続によって承継する債務と、受益権の取得に伴って税務上帰属する信託の負債を整理しました。同じ借入金を、両方で重複して控除しないようにします。
「相続税の計算で負債を二人に配分しても、銀行に対する返済責任まで自動的に半分ずつへ変わるわけではありません」
税理士の説明を聞き、健一と美咲は、相続税申告と銀行への手続を分けて確認することにしました。
信託した土地にも小規模宅地等の特例は使える?
山田家のマンションには、賃貸事業に使われている土地があります。
健一は尋ねました。
「土地は信託されていますよね。それでも、小規模宅地等の特例を使えるのでしょうか」
信託された土地だからという理由だけで、特例の対象から外れるわけではありません。
相続税上、受益者が信託財産に属する資産を取得したものとして扱われる場合、その信託財産に含まれる土地についても、小規模宅地等の特例を検討できます。
ただし、確認するのは、登記名義人である美咲が土地を取得したかどうかではありません。
和子が持っていた受益権の中にマンションの土地が含まれ、その受益権を健一と美咲が取得したという関係を確認します。
信託受益権に特例を適用するための確認
山田家では、次の関係を整理しました。
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和子は、死亡直前までマンションから生じる経済的利益を受けていた
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マンションの土地は、和子の不動産貸付事業に使われていた
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美咲は受託者として管理していたが、賃貸収入は和子の不動産所得として申告されていた
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和子の死亡後、健一と美咲が受益権を2分の1ずつ取得した
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信託は終了せず、マンションの賃貸事業も継続する
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美咲は引き続き受託者としてマンションを管理する
ここでは、受託者の登記名義だけを見るのではなく、誰の貸付事業に使われていた土地なのか、誰が受益権を取得したのか、死亡後も受益権と貸付事業がどのように引き継がれるのかを確認します。
そのうえで、貸付事業用宅地等に関する保有継続、事業継続、対象面積その他の要件を確認します。
信託契約上の受益者、受益割合、マンションの賃貸状況が明確でなければ、通常の不動産と同じ資料だけでは関係を説明できません。
美咲がそろえた資料
美咲は、相続税申告と信託登記の手続に必要となる資料を集めました。
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信託契約書
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登記事項証明書と信託目録
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和子の死亡を確認できる戸籍関係資料
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健一と美咲が受益権を取得したことを示す資料
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信託口口座の死亡時残高
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借入金の契約書、返済予定表、残高証明書
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借入金の入金と工事代金の支払いが分かる記録
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マンションの賃貸借契約書と家賃明細
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土地と建物の評価に必要な資料
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修繕費と資本的支出に関する記録
税理士は、これらを基に、信託財産の評価額、借入金、小規模宅地等の特例、健一と美咲の取得内容を相続税申告へ反映します。
司法書士には、受益者の変更に伴う信託登記など、必要な登記手続を確認しました。
山田家の相続税申告
山田家では、信託不動産の相続税評価額を約1億2,000万円としました。
和子の死亡時に残っていた合計約3,500万円の借入金については、既存借入れと修繕借入れを分け、各契約の内容、資金使途、返済記録、死亡時残高、債務の帰属を確認しました。通常の相続債務と信託に帰属する負債を整理し、重複して控除しないよう相続税申告へ反映しました。
土地については、受益権を通じて健一と美咲が取得したものとして、貸付事業用宅地等に係る小規模宅地等の特例の要件を確認しました。
健一と美咲が取得した受益割合は、それぞれ2分の1です。
マンションの所有権の登記名義は、受託者である美咲のままです。
しかし、相続税申告では、その登記名義ではなく、和子の死亡によって健一と美咲が取得した信託の経済的利益を反映します。
一般的な注意
家族信託の契約内容は、それぞれ異なります。
委託者が亡くなったときに信託が終了する契約もあれば、山田家のように後継受益者を定めて信託を継続する契約もあります。
また、借入金の契約内容、資金使途、返済方法や、土地の利用状況によって、債務控除や小規模宅地等の特例の取扱いは変わります。
委託者の死亡後は、信託契約、受益者の変更、信託財産の資産と負債、必要な登記手続を一体として確認する必要があります。
今回のポイント
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和子が亡くなっても、山田家の信託は終了しない
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美咲は受託者を続け、マンションの所有権の登記名義も美咲のまま
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信託目録には、和子から健一・美咲への受益者変更を反映する
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健一と美咲は、受益権をそれぞれ2分の1取得する
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信託契約に基づく死亡後の受益権取得は、相続税法上、遺贈による取得とみなして課税関係を判断する
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相続税では、受益権の目的となる信託財産の資産と負債を見る
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購入打診額1億3,000万円と相続税評価額約1億2,000万円は別の金額
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借入金合計約3,500万円は、既存借入れと修繕借入れを分け、契約、資金使途、返済状況、死亡時残高、債務の帰属を確認する
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信託された土地も、小規模宅地等の特例の検討対象になり得る
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特例では、受益権の承継と貸付事業の継続関係を確認する
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登記名義人と相続税上の取得者は、必ずしも一致しない
次回予告 兄妹で受益権を半分ずつ取得したら、家賃も半分?
和子の相続税申告を終えた後も、美咲は受託者としてマンションの管理を続けました。
家賃は信託口口座へ入り、そこから経費や借入金が支払われます。
翌年、兄妹の確定申告に向けて税理士が所得と資金の動きを整理すると、二人は信託口口座に残った現金をどう分配するかという問題に気づきました。
次回は、兄妹に帰属する不動産所得と、実際に分配する現金の違いを確認します。