第7話 母へ渡していない家賃にも、税金がかかる?
「お母さんへ渡した分だけ申告すればいいんじゃない?」
家族信託を始めてから、最初の確定申告の時期が近づいてきました。
山田家では、以前からマンションの賃貸管理を管理会社へ任せ、和子の確定申告は税理士へ依頼していました。美咲も、請求書を保管したり、税理士から求められた資料を探したりして、母を手伝ってきました。
今年も、申告書を作成するのは税理士です。ただし、今回は家族信託を始めてから最初の申告です。家賃は美咲が受託者として管理する口座へ振り込まれ、マンションに関する支払いも、その口座から行われるようになっていました。
二月のある日、美咲は、山田家のダイニングテーブルいっぱいに書類を広げていました。
管理会社から届いた年間収支明細、マンションの賃貸借契約書、管理用口座の取引明細、固定資産税や保険料の資料。先日届いた水漏れ修理の請求書も、その端に置かれています。
「家賃は一年分で、だいたい一千五百万円ね」
美咲が管理会社の明細と通帳を見比べていると、隣に座った和子が、管理用口座の残高を指さしました。
「この口座には、まだお金が残っているでしょう。でも、私の口座へ振り込んでもらったのは、その一部よね」
「急な修理や設備交換に備えて、全部は送らずに残してあるから」
美咲が答えると、和子は申告資料の束を見ながら言いました。
「それなら、確定申告をするのは、私が受け取った分だけでいいんじゃない?」
その会話を聞いていた健一も、首をかしげます。
「母さんの口座へ振り込まれていないお金にまで、母さんの税金がかかるのか?」
美咲の手が止まりました。
家賃が振り込まれる管理用口座の名義は、受託者である美咲です。しかし、そのお金は美咲が自由に使えるものではありません。
では、管理用口座に入った家賃のうち、和子へ送金していない部分は、誰の所得として申告するのでしょうか。
通帳に残した家賃は、誰のお金なのか
山田家の家族信託では、母の和子が委託者であり、当初の受益者です。長女の美咲は受託者として、マンションとそこから生じるお金を管理しています。
美咲名義の管理用口座に家賃が入っていても、それは美咲個人のお金ではありません。美咲は、信託契約に従って、そのお金を預かり、マンションのために管理する立場です。
一方、マンションから生じる利益を受けるのは、受益者である和子です。
「口座の名義が美咲だから、美咲の収入になる」のでも、「和子の口座へ送金したときに初めて、和子の収入になる」のでもありません。
誰の所得として扱うかを考えるときは、通帳の名義や送金先だけではなく、信託契約上、誰が受益者なのかを確認する必要があります。
家賃を申告するのは、管理する人? 利益を受ける人?
「私はマンションを管理している人で、お母さんはマンションの利益を受ける人ということね」
美咲がそう整理すると、和子はうなずきました。
税務上、一般的な受益者課税の信託では、信託財産に属する資産や負債、そこから生じる収益や費用は、原則として受益者に帰属するものとして扱われます。所得税法第十三条が、その基本的な考え方を定めています。
山田家では、信託したマンションの受益者は和子です。そのため、マンションから生じる家賃収入や、その収入を得るために必要となる費用は、原則として和子の不動産所得を計算するときに反映します。
美咲は、受託者として家賃を受け取り、支払いを行い、記録を作ります。しかし、管理を担当しているという理由だけで、家賃が美咲自身の所得になるわけではありません。
「管理する人」と「利益を受ける人」を分けて考えることが、最初のポイントです。
母へ送金していなくても、結論は変わらない
和子は、もう一度、管理用口座の残高を見ました。
「でも、ここに残っている分は、私は使っていないわ」
「使ったかどうかではなく、マンションから生じた収益が誰に帰属するかで考えるの」
美咲は、税理士に確認した内容を、できるだけ分かりやすく説明しました。
和子へ実際にいくら送金したかは、受益者への給付を管理するための大切な記録です。しかし、送金額だけで和子の不動産所得が決まるわけではありません。
修理などに備えて家賃の一部を管理用口座へ残していても、それだけを理由に、その部分が和子に帰属する収益から外れるわけではないのです。
反対に、ある年に美咲が和子へ多めに送金しても、その送金額がそのままその年の不動産所得になるわけではありません。
送金額は「和子へいくら給付したか」を示す数字です。不動産所得は「マンションから生じた収益と費用」を基に計算する数字です。
二つは、同じではありません。
一千五百万円すべてに税金がかかるわけではない
ここで健一が、管理会社の年間収支明細を指さしました。
「じゃあ、この一千五百万円くらいの家賃全部に、そのまま税金がかかるのか?」
それも違います。
不動産所得は、原則として、家賃などの総収入金額から必要経費を差し引いて計算します。
総収入金額-必要経費=不動産所得
年間家賃約一千五百万円は、収入を考える出発点です。同じ金額が、そのまま不動産所得や課税対象額になるわけではありません。
管理用口座からは、管理手数料、固定資産税、保険料、修理関係の支出、借入金の返済など、さまざまなお金が出ています。
ただし、口座から支払ったものがすべて、その年の必要経費になるわけでもありません。支出の内容と時期を資料で確認し、税務上の取扱いを一つずつ判断する必要があります。
水漏れ修理の請求書を見た美咲は、その資料をほかの支出と分けて保管しました。修理に関する支出をどう扱うかは、工事の内容を確認してから判断することにしたのです。
山田家の具体的な不動産所得や税額は、年間の収益と費用を整理しなければ決まりません。
五つの数字を分けて考える
美咲は、家族が混同していた数字を、ノートに五つ書き出しました。
| 数字 | 何を表す数字か |
|---|---|
| 年間の家賃など | 総収入金額を考える基礎になる数字 |
| 管理用口座から支払った金額 | 実際の出金額。全額が必要経費になるとは限らない |
| 和子へ送金した金額 | 受益者へ給付した金額。原則として必要経費ではない |
| 年末の管理用口座残高 | その時点で口座にある金額。その年の所得そのものではない |
| 不動産所得 | 原則として総収入金額から必要経費を差し引いて計算し、和子に帰属する所得 |
「同じ通帳を見ているのに、数字の意味はそれぞれ違うのね」
和子がそう言うと、美咲はうなずきました。
和子への送金額は、和子が受け取った金額を確認するための数字です。口座残高は、今後の管理に使える資金を確認するための数字です。不動産所得は、確定申告のために収益と必要経費から計算する数字です。
確定申告では、送金額や口座残高から所得を逆算するのではなく、マンションから生じた収益と費用を整理します。
口座残高と所得が一致しない理由
「通帳の残高が増えた分を、所得にすればいいわけでもないの?」
和子の疑問に、美咲は首を横に振りました。
管理用口座には、前年から繰り越したお金が含まれていることがあります。家賃以外の入金があることもあります。そのため、年末の口座残高や一年間の残高増加額は、そのまま不動産所得にはなりません。
出金についても同じです。たとえば、借入金の元本返済は口座からお金が出ていきますが、その元本部分がそのまま必要経費になるわけではありません。
さらに、現金を支払った時期と、税務上その費用を反映する時期が一致しないこともあります。年末までに支払っていなくても、その年の必要経費として扱うものがある一方、支払済みでも、その年に全額を必要経費にできないものがあります。
通帳は大切な資料ですが、「入金合計-出金合計」だけで不動産所得を計算することはできません。
美咲は、通帳の各取引について、何のための入出金なのかが分かるように、管理会社の明細や請求書と対応させることにしました。
家賃は、いつの年の収入になる?
通帳を確認していた美咲は、年末分の家賃について、契約上の支払日と実際の入金日が同じかを確認しました。
家賃収入は、原則として、賃貸借契約などで定められた支払日を基準に、その年の収入へ計上します。実際に管理用口座へ入金された日だけを見ればよいとは限りません。
たとえば、年末までに支払われる契約の家賃が翌年に入金された場合、通帳だけを見ると翌年の収入に見えます。しかし、どの年の収入として扱うかは、契約上の支払日などを確認して判断します。
滞納していた家賃がまとめて入金された場合も、入金日だけでなく、契約内容とそれぞれの支払期日を確かめる必要があります。
美咲は、通帳の入金だけを拾うのではなく、賃貸借契約書と管理会社の年間収支明細を並べて確認しました。
「通帳だけを見れば終わり、ではないのね」
信託開始後、最初の申告に向けた資料整理は、美咲が想像していたよりも細かな確認の連続でした。
美咲が税理士へ渡すためにそろえたもの
美咲は、税理士へ一年間の動きを説明できるように、次の資料をそろえました。
- 家賃収入を確認するための、管理会社の年間収支明細
- 入出金を確認するための、管理用口座の通帳又は取引明細
- 家賃の金額や支払日を確認するための、賃貸借契約書
- 管理手数料、固定資産税、保険料などの資料
- 修理関係の見積書、請求書、領収書
- 借入金の元本と利息を確認するための、返済予定表
- 和子へ給付した金額と日付の記録
資料を集める目的は、口座から支払った金額を単純に合計することではありません。年間の収益と費用を整理し、和子の不動産所得を計算できる状態にすることです。
それぞれの支出を必要経費にできるか、いつの年に反映するかは、その内容によって異なります。美咲は、自分だけで結論を決めず、資料をそろえたうえで税理士へ確認することにしました。
美咲がそろえる資料と、税理士が作る申告書
信託を始める前から、和子の申告は税理士が担当し、美咲も請求書の保管や不足資料の確認を手伝っていました。
信託を始めた後は、美咲が受託者として家賃を受け取り、支払いを行っています。そこで今回、美咲は、管理用口座の取引明細、請求書や領収書、和子への送金記録をそろえ、分からなくならないように簡単な管理メモを付けました。
資料を基に帳簿を整え、必要経費を判断し、不動産所得を計算するのは税理士です。納税者は和子で、税理士が和子の確定申告書を作成し、代理して申告します。
「私は資料をそろえて、何のお金か分かるようにメモを付ける。帳簿や申告書は、税理士さんにお願いすればいいのね」
美咲が確認するように言うと、和子もようやく整理できたようでした。
山田家の結論
税理士は、和子への送金一覧を、そのまま家賃収入の一覧として扱いませんでした。
管理会社の年間収支明細や管理用口座の取引資料などを確認し、管理用口座に残した家賃も含めて、信託したマンションから生じた一年間の収益と費用を整理します。そのうえで、税理士が和子の不動産所得を計算します。
美咲は、管理用口座の取引資料、和子への送金記録、管理会社の明細、契約書、請求書などをそろえ、簡単な管理メモとともに税理士へ渡します。
管理用口座へお金を残すことは、急な修理などに備え、マンションを安定して管理するために必要です。しかし、口座へ残したからといって、和子に帰属する収益でなくなるわけではありません。
「私へ渡した金額だけではなく、一年間のマンション経営全体を見るのね」
和子のその言葉に、美咲は大きくうなずきました。
一般的な注意
信託では、誰が受益者なのか、受益権の内容がどのように定められているかによって、所得の帰属が変わることがあります。受益者が複数いる場合には、それぞれの権利の内容を確認する必要があります。
また、すべての信託が同じ課税関係になるわけではありません。法人課税信託など、一般的な受益者課税とは異なる取扱いとなる信託もあります。
実際の申告では、信託契約書の内容だけでなく、実際に誰が利益を受け、どのように給付や管理が行われているかも確認して判断します。
今回のポイント
- 母へ送金した金額だけで、母の不動産所得が決まるわけではない。
- 一般的な受益者課税の信託では、信託財産から生じる収益と費用は、原則として受益者に帰属する。
- 年間家賃約一千五百万円が、そのまま不動産所得や課税対象額になるわけではない。
- 管理用口座の残高、受益者への給付額、不動産所得は、それぞれ別の数字である。
- 受託者が取引資料、証拠書類、送金記録及び管理メモをそろえることが、税理士による受益者の所得計算と申告書作成を支える。
次回予告 長女が受け取る受託者報酬は、経費になる?
管理会社から届いた明細を確認し、通帳の入出金を整理し、請求書や領収書をそろえる。信託を始めてから、美咲には、こうした管理の仕事が少しずつ積み重なっていました。
確定申告の資料をまとめ終えた夜、和子は、付箋だらけになった美咲のファイルを見つめました。
「ここまでしてもらっているのだから、受託者としての報酬を払いたいわ」
すると健一が、また新しい疑問を口にします。
「その報酬は、マンションの経費にできるのか?」
信託契約に受託者報酬の定めがあれば、和子の不動産所得を計算するときに、当然に必要経費へ入れられるのでしょうか。
次回は、受託者報酬を支払うときの税務を、山田家と一緒に考えます。