CASE 02

第2話 長女を受託者にすると、贈与になる?

母のひと言で、話が止まった

水漏れの応急修理から数日後、和子、美咲、健一は、税理士の事務所を訪れました。

この日は、税理士から紹介された司法書士も同席しています。

机の上には、山田家の人物関係と、信託を検討している財産をまとめた紙が置かれていました。

司法書士が、和子の名前から美咲の名前へ線を引きました。

「和子さんがマンションを信託し、美咲さんが受託者として管理する形が考えられます」

そのとき、和子が紙をのぞき込みながら尋ねました。

「美咲に管理を任せるということは、マンションを美咲にあげることになるの?」

部屋の中が、少し静かになりました。

美咲も、同じことが気になっていました。

「もし私がマンションをもらったことになるなら、贈与税がかかりますよね」

相続税評価額が約1億2,000万円あるマンションです。

自分が受託者になるだけで、母から高額な財産を贈与された扱いになるのではないか。

美咲が心配するのも無理はありませんでした。

健一も紙を見ながら言いました。

「管理を任せることと、マンションを渡すことは、税金の上では同じなんですか」

税理士は、首を横に振りました。

「同じとは限りません。まず、財産を管理する人と、その財産から利益を受ける人を分けて考えましょう」

管理する人と、利益を受ける人

司法書士は、紙に三つの役割を書きました。

委託者

受託者

受益者

「委託者は、財産を信託する人です。山田家では、マンションを所有している和子さんです」

続いて、美咲の名前を指しました。

「受託者は、信託契約に従って財産を管理する人です。美咲さんが受託者になれば、契約で定めた範囲で、賃貸管理、修繕、契約更新などを行います」

「では、マンションは私の財産になるのですか」

美咲が尋ねました。

「受託者は、信託目的と契約に従って信託財産を管理します。自分の財産と同じように、自由に使えるわけではありません」

美咲が受託者になっても、マンションの家賃を自分の生活費に使ったり、自分の都合だけで売却したりすることはできません。

「受託者には、契約を結ぶ権限だけでなく、信託財産を自分の財産と分け、収支を記録し、受益者のために適切に管理する責任があります。美咲さんが実際に担う仕事と、続けられなくなった場合の対応も、契約前に確認しましょう」

司法書士は、管理会社との連絡、支払手続、資料の保管、家族への報告などを、美咲と一つずつ確認しました。

司法書士は、最後に「受益者」という言葉を指しました。

「受益者は、信託財産から経済的な利益を受ける人です」

「マンションを管理するのは美咲。でも、家賃から利益を受ける人は、別に決められるということですか」

和子が確認しました。

「そうです。美咲さんが管理を担当し、和子さんが引き続き家賃などの利益を受ける契約にすることができます」

管理する人と、利益を受ける人。

この二つを分けることが、家族信託の税務を理解する第一歩でした。

贈与税が見るのは「誰が利益を得たか」

今度は、税理士が説明を引き継ぎました。

「贈与税を考えるときに、受託者の名前だけを見てはいけません。信託によって、誰が経済的な利益を取得するのかを確認します」

信託の効力が生じたとき、委託者とは別の人が受益者となり、信託に関する権利を取得する場合があります。

その場合には、その受益者が委託者から信託に関する権利を贈与によって取得したものとみなされ、贈与税を検討する必要があります。

一方、財産を信託した本人が、引き続き受益者になる形もあります。

税理士は、紙に山田家の契約案を書きました。

委託者 和子

受託者 美咲

当初受益者 和子

財産を信託する人と当初の受益者が同じになる信託は、自益信託と呼ばれます。

「山田家で検討しているのは、この自益信託です。美咲さんは管理を担当しますが、信託設定時に和子さんから美咲さんへ信託に関する権利が移る契約ではありません」

「それなら、私が受託者になったことだけで、贈与税がかかるわけではないんですね」

「はい。今検討している契約案を前提にすれば、美咲さんが受託者になったことだけを理由に、和子さんから美咲さんへ贈与があったことにはなりません」

美咲は、少し安心した表情を見せました。

同じ家族信託でも、結論は変わる

ただし、税理士は「家族信託なら贈与税がかからない」とは説明しませんでした。

「誰を受益者にするかによって、結論は変わります」

山田家が検討している自益信託では、美咲が管理を担当し、和子が経済的な利益を受けます。

これに対して、最初から美咲を受益者にすれば、美咲が信託に関する権利を取得したものとして、贈与税を検討する必要があります。

契約の考え方管理する人利益を受ける人設定時の考え方
山田家が検討する自益信託美咲和子和子から美咲へ信託に関する権利が移る契約ではない
美咲を当初受益者にする信託美咲美咲美咲が信託に関する権利を贈与で取得したものとして検討する

健一は、二つの案を見比べました。

「美咲の名前が契約書に載るかどうかではなく、誰が家賃などの利益を受けるかが大事なんですね」

「そのとおりです。受託者が誰かという問題と、受益者が誰かという問題を混同しないことが重要です」

山田家は、和子を受益者にする

税理士は、和子に尋ねました。

「和子さんは、これからマンションの家賃をどのように使いたいですか」

「これまでどおり、私の生活にも使いたいです。マンションも古くなっていますから、修繕のためのお金も残しておきたいです」

「今の時点で、マンションの利益を美咲さんへ渡したいということではないのですね」

「はい。美咲には管理を任せたいです。でも、マンションをあげるつもりではありません」

和子が望んでいるのは、マンションを美咲へ贈与することではありません。

家賃収入は、引き続き和子の生活やマンションの維持管理に使います。

その一方で、管理会社との連絡、修繕工事の手配、賃貸借契約の更新などは、美咲が受託者として進められるようにします。

また、美咲だけに情報が集まらないように、半年ごとに健一へ管理状況を報告します。

「税金をかけないためだけに、和子さんを受益者にするわけではありません」

税理士は説明しました。

「家賃などの利益は和子さんが受け、管理実務は美咲さんへ任せたいという和子さんの希望に、この形が合っているのです」

税務上の結論を先に決め、それに家族の希望を合わせるのではありません。

誰に何を任せ、誰が利益を受けるのか。

山田家の目的を整理した結果、自益信託が基本案になりました。

契約条項が、将来の税金にも影響する

和子を当初受益者にすると決めても、それだけで契約内容が完成するわけではありません。

司法書士は、これから具体的に決める事項を説明しました。

美咲に、どこまでの管理権限を持たせるのか。

修繕や賃貸借契約を、どの範囲で行えるようにするのか。

借入れや売却について、どのような条件を設けるのか。

家賃から和子へ、どのようにお金を渡すのか。

健一へ、いつ、どのような報告をするのか。

美咲が受託者を続けられなくなった場合に、誰が引き継ぐのか。

そして、和子が亡くなった後に、誰が受益権を取得するのか。

「契約と登記については、私が和子さんの意思を確認しながら整理します」

司法書士が説明しました。

税理士は、その契約案を税務の面から確認します。

「契約書の中には、今の贈与税だけでなく、将来の所得税や相続税の判断に影響する条項もあります」

山田家の基本案では、和子が亡くなった後、健一と美咲が受益権を2分の1ずつ取得します。

ただし、将来の受益者として名前が書かれていることと、今すぐその権利を取得することは同じではありません。

和子が受益者である現在の課税関係と、和子が亡くなった時点の課税関係は、分けて考える必要があります。

その具体的な扱いは、実際に和子が亡くなったときの相続税を扱う回で確認します。

報酬を受け取ることは、マンションをもらうことではない

美咲には、もう一つ気になることがありました。

「受託者になれば、管理会社との連絡や資料の整理、兄への報告も私がすることになります。報酬を受け取ったら、それもマンションの利益をもらったことになるんですか」

司法書士は、契約に受託者報酬の定めを置く予定だと説明しました。

ただし、受託者として行った仕事の対価を受け取ることと、マンションの受益権を取得することは別です。

税理士は答えました。

「受託者報酬については、業務の内容、報酬額、契約上の根拠、実際の支払記録を確認する必要があります。受益権の問題とは分けて考えましょう」

この日は、報酬の金額までは決めませんでした。

美咲が実際にどのような仕事を担うのかを整理したうえで、報酬額と税務上の取扱いを改めて検討することになりました。

「家族信託なら贈与税がかからない」ではない

税理士は、山田家の契約案について、現時点の結論を説明しました。

「和子さんが委託者兼当初受益者となり、美咲さんが受託者として管理するという前提であれば、美咲さんが受託者になったことだけを理由に、和子さんから美咲さんへ贈与があったことにはなりません」

ただし、これは、すべての家族信託に贈与税がかからないという意味ではありません。

美咲を受益者にしたり、美咲へ受益権の一部を与えたりすれば、その時点で誰に経済的な利益が移ったのかを検討する必要があります。

信託を始めた後に、受益者を和子から美咲へ変更する場合も同じです。

また、契約書では和子が受益者になっていても、実際には美咲が家賃を自分のために使っていれば、契約書だけを見て判断することはできません。

信託の名称や登記名義だけではなく、契約の内容と実際のお金の流れを確認する必要があります。

「大切なのは、家族信託を使ったかどうかではありません。誰が、いつ、どの経済的な利益を取得したのかです」

山田家の結論

山田家は、和子を委託者兼当初受益者、美咲を受託者とする自益信託を基本に、契約案を作ることにしました。

信託の対象とするのは、賃貸マンションと、その管理や修繕に使う1,000万円です。

自宅と日常生活に使う預金は、和子の手元に残します。

美咲は、契約で定められた範囲でマンションを管理し、半年ごとに健一へ管理状況を報告します。

家賃などの経済的な利益は、引き続き和子に帰属します。

ただし、この日に決まったのは、契約の基本的な方向だけです。

約3,000万円の借入れと抵当権については、金融機関との協議が残っています。

美咲に与える具体的な権限、受託者報酬、和子への給付方法、後継受託者、和子死亡後の受益権、信託終了時の残余財産についても、契約案を確認しながら決めなければなりません。

司法書士が契約案を作り、税理士がその内容を税務の面から確認する。

山田家は、その手順で家族信託の準備を進めることにしました。

一般的な注意

受託者は、信託契約に従って信託財産を管理する人です。

受益者は、その信託から経済的な利益を受ける人です。

受託者になったことや、受託者の名前が登記に記載されたことだけで、贈与税がかかるかどうかを判断することはできません。

信託設定時の贈与税を検討する場合は、誰が受益者となり、誰から誰へ信託に関する権利や経済的な利益が移るのかを確認します。

また、契約書の記載だけでなく、実際の家賃の管理、給付、支出その他のお金の流れも重要です。

契約の作成と登記は司法書士などの法律の専門家へ、課税関係と申告は税理士へ確認し、契約案の段階から連携して進める必要があります。

今回のポイント

受託者は、信託財産を契約に従って管理する人

受益者は、信託から経済的な利益を受ける人

贈与税では、誰が信託に関する権利を取得したかを確認する

山田家の契約案は、和子を委託者兼当初受益者、美咲を受託者とする自益信託

この契約案では、美咲が受託者になったことだけを理由に、美咲へ贈与があったことにはならない

受益者や受益権の内容が変われば、贈与税の結論も変わる

契約の内容と実際のお金の流れを一致させる

契約案の段階から、司法書士と税理士が連携して確認する

第3話 登記簿に長女の名前――マンションを贈与したことになる?

司法書士が作成した契約案を税理士が確認し、金融機関との協議も終わりました。管理会社とも、信託開始後の連絡窓口、管理委託契約に必要な手続、家賃の振込先を切り替える時期を事前に確認しました。契約を結ぶ前には、司法書士が現在の登記事項証明書と、信託後にどのような登記になるかを説明する資料を示し、美咲が受託者として登記されることを三人に説明しました。

山田家は家族信託契約を締結し、賃貸マンションについて信託の登記を行います。

後日、登記完了後の登記事項証明書を見た健一は、説明どおり美咲の名前が記載されていることを確認しました。

「名義が変わることは聞いていたけれど、実際の書類で見ると、マンションを美咲に渡したようにも見えるな」

受託者の名前が登記に記載されることと、マンションの経済的な利益を受けることは、同じではありません。

次回は、信託によって登記名義が長女へ変わった場合の法律関係と、登録免許税、不動産取得税について考えます。