第6話 確定申告の前に、受託者が提出する書類がある?
12月も半ばを過ぎたころ、美咲のもとに税理士から電話がありました。
「年が明けたら、信託を始めてから最初の税務手続があります。提出期限が1月31日なので、1月上旬に一度、資料を確認しましょう」
美咲は、母の確定申告の打合せだと思いました。
「確定申告には、まだ少し早くありませんか」
「今回は、和子さんの確定申告より先に、受託者である美咲さんが提出する書類があります。信託を始めたときにも年間予定をご説明しましたが、初めての提出ですから、実際の資料を見ながら確認しましょう」
美咲は、信託を始めたときに渡された年間予定表を取り出しました。
1月の欄には、「信託の計算書・同合計表」と書かれています。その後の2月から3月の欄には、「和子さんの所得税確定申告」と書かれていました。
説明を受けた記憶はありましたが、美咲は、どちらも母の確定申告に関する手続だと思っていました。
年が明けると、美咲は信託契約書、信託口口座の明細、管理会社から届いた資料を持って、税理士との打合せに向かいました。
確定申告より先に来る期限
税理士は、年間予定表の1月31日に印を付けました。
「最初に確認するのは、信託の計算書です。一般の受託者は、原則として前年分を翌年1月31日までに提出します」
「母の確定申告書とは違うのですか」
「はい。和子さんの所得税の確定申告とは別の手続です」
美咲は、二つの書類を同じものだと思っていました。
マンションから生じる所得は、受益者である和子の所得として申告します。そのため、信託に関係する税務書類も、すべて和子の確定申告に含まれると思っていたのです。
税理士は、二つの手続を表にして説明しました。
| 項目 | 信託の計算書・同合計表 | 和子の所得税確定申告 |
|---|---|---|
| 手続をする立場 | 受託者 | 受益者・納税者 |
| 山田家では | 美咲 | 和子 |
| 主な目的 | 信託財産の収益・費用、資産・負債、受益者などを報告する | 和子の所得と税額を申告する |
| 一般的な期限 | 翌年1月31日 | 翌年の確定申告期限 |
| 実際の作業 | 美咲が資料をそろえ、税理士が作成・提出を支援する | 税理士が和子の申告書を作成・提出する |
「信託の計算書を提出すれば、母の確定申告も終わるわけではないのですね」
「そうです。反対に、和子さんの確定申告をするからといって、信託の計算書を省略できるわけでもありません」
山田家の初めての年次税務は、まず1月31日までの信託の計算書、その後に和子の確定申告という順番で進みます。
なぜ、美咲が提出するの?
美咲には、まだ分からないことがありました。
「マンションから生じる所得は母のものなのに、なぜ信託の計算書は私が提出するのでしょうか」
税理士は、二つの立場を分けて説明しました。
- マンションから生じる所得について税金を申告する人――受益者の和子
- 信託財産を管理し、その状況を報告する人――受託者の美咲
山田家では、美咲が受託者としてマンションを管理しています。
家賃の入金を確認し、信託口口座から経費を支払い、管理会社や入居者との連絡を行うのも美咲です。
そのため、信託財産の収益や費用、資産や負債などを報告する信託の計算書は、受託者である美咲が提出する手続とされています。
「私が提出するからといって、マンションの家賃が私の所得になるわけではないのですね」
「そのとおりです。税金を申告する人と、信託の状況を報告する人を分けて考える必要があります」
美咲は、ようやく二つの書類の関係が見えてきました。
提出するのは「計算書」と「合計表」
税理士は、国税庁の様式を美咲に見せました。
提出するのは、「信託の計算書」と「信託の計算書合計表」です。
信託の計算書には、主に次のような情報を記載します。
- 委託者、受託者、受益者に関する情報
- 信託財産から生じた収益と費用
- 信託財産に属する資産と負債
- 受益者に変更があったか
- 受託者報酬を支払った場合の情報
信託の計算書合計表は、提出する計算書を取りまとめるための書類です。
「マンションの家賃だけを報告する書類ではないのですね」
「はい。家賃だけでなく、経費や年末時点の資産・負債、受益者に関する情報も確認します」
山田家では、和子が当初受益者です。信託を開始してから年末までに、受益者の変更はありませんでした。
税理士は、信託契約書や登記事項を確認したうえで、家賃、経費、信託口口座の残高などを計算書へ反映します。
収益がごく少額の場合には、信託の計算書を提出しなくてよい取扱いもあります。
しかし、賃貸マンションから継続して家賃が生じる山田家は、その取扱いの対象にはなりません。
最初の年は、信託開始の前後を分ける
税理士は、美咲が持参した家賃一覧を確認しました。
「この一覧は、前年1月から12月までの分ですね」
「はい。管理会社から一年分をまとめてもらいました」
「今回は信託を始めた最初の年ですから、信託開始前と開始後を分けて確認します」
山田家が家族信託を始めたのは、前年10月です。
信託開始前は、和子がマンションを直接所有し、管理していた期間です。
信託開始後は、美咲が受託者としてマンションを管理している期間です。
そのため、最初の信託の計算書では、信託開始日以後の家賃、経費、資産、負債を資料から切り分ける必要があります。
マンションの家賃収入は、通常の一年で約1,500万円です。
しかし、初年度の信託の計算書に、一年分の約1,500万円をそのまま記載するわけではありません。
税理士は、信託開始日以後の家賃を管理会社の入金明細から確認します。経費についても、請求書、領収書、口座の支払記録などから、信託開始後の分を確認します。
「信託開始前の通帳も必要ですか」
「開始日の前後で入金や支払いを区切るために必要です。開始前の資料と、開始後の信託口口座の資料を分けて渡してください」
美咲は、同じマンションの一年分だからと、すべてを一緒にしてはいけないことが分かりました。
美咲が集めるのは、事実が分かる資料
「私が家賃や経費を集計して、計算書まで作った方がよいですか」
美咲が尋ねると、税理士は答えました。
「美咲さんには、実際の入金や支払いが分かる資料をそろえてもらいます。帳簿と税務書類はこちらで作成します」
美咲が準備する資料は、次のとおりです。
- 信託契約書と信託開始日が分かる資料
- 受託者、委託者、受益者の情報
- 信託不動産の登記事項と物件情報
- 信託開始日以後の家賃入金明細
- 信託口口座の取引明細
- 12月31日現在の口座残高が分かる資料
- 管理費、固定資産税、保険料などの支払資料
- 賃貸借契約書と管理会社の精算資料
- 信託開始時に引き継いだ資産や負債が分かる資料
- 受益者や信託契約の変更に関する資料
美咲が担当するのは、信託財産について実際に何が起きたのかを確認できる資料をそろえることです。
どの支出を必要経費にするか、どの勘定科目で処理するか、減価償却費をいくら計上するかを美咲が判断するわけではありません。
不足している資料があれば、美咲が管理会社や金融機関へ確認します。
税理士は、そろった資料を基に帳簿を整え、信託の計算書へ記載する金額を判断します。
「私は計算の答えを作るのではなく、先生が判断できる資料をそろえるのですね」
「はい。特に最初の年は、信託開始の前後を分けられる資料が重要です」
税理士が書類を作り、美咲が内容を確認する
美咲から資料を受け取った税理士は、信託開始日を基準に期間を分けました。
そして、信託開始後の家賃、経費、資産、負債、受益者の情報を確認し、信託の計算書と同合計表を作成します。
「提出までお願いできますか」
「はい。委任を受けて、こちらで作成と提出を行います。ただし、受託者の手続ですから、提出前に美咲さんにも内容を確認してもらいます」
税理士が提出実務を担当しても、受託者である美咲の手続であることは変わりません。
美咲は、完成した書類について、次の点を確認しました。
- 対象となる信託に誤りがないか
- 受託者と受益者の情報が正しいか
- 対象期間が信託開始日以後になっているか
- 税理士へ渡した資料が反映されているか
税理士は、提出後、信託の計算書と同合計表の控え、e-Taxの受信通知を美咲へ渡しました。
美咲は、それらを信託関係の資料として年度別に保管しました。
「書類を送っただけではなく、期限までに提出したことが分かる記録も残すのですね」
「翌年以降の処理や、将来の受益者変更、信託終了の際にも、過去の提出内容を確認できるようにしておく必要があります」
同じ資料を、次は母の確定申告へつなぐ
信託の計算書を提出した後、美咲は税理士に尋ねました。
「これで、母の確定申告も終わったのでしょうか」
「いいえ。ここから、和子さんの所得税の確定申告を進めます」
信託の計算書と、和子の所得税確定申告は別の手続です。
ただし、二つの書類は無関係ではありません。
信託開始後の家賃、経費、資産、負債、受益者などについて、同じ基礎資料を使います。そのため、対象期間、金額、人物関係が整合していなければなりません。
税理士は、信託の計算書を作成するために整理した資料を、次は和子の確定申告へつなげます。
美咲は、税務書類ごとに別々の数字を作るのではなく、家賃や支払いの事実が分かる資料を正確に残すことが重要だと分かりました。
山田家が決めた毎年の流れ
初年度の提出を終えた山田家は、翌年から期限の直前に慌てないように、毎年の流れを決めました。
美咲は、家賃の入金明細、信託口口座からの支払い、請求書、領収書などを毎月保存します。
年末には、受益者や信託財産に変更がなかったかを確認し、12月31日現在の口座残高などの資料をそろえます。
1月上旬に、前年分の資料を税理士へ渡します。
税理士は、その資料を基に信託の計算書と同合計表を作成し、1月31日までに提出します。
提出後、美咲は書類の控えと提出記録を保管します。
その後、同じ基礎資料を使って、税理士が和子の所得税確定申告を進めます。
「家族信託を始めたら、母の確定申告だけを気にしていればよいわけではないのね」
美咲が言いました。
「受託者には、信託財産を管理するだけでなく、その内容を期限までに報告する手続もあります」
税理士の説明を聞きながら、美咲は翌年の予定表にも、1月31日の期限を書き込みました。
今回のポイント
- 受益者の確定申告とは別に、受託者が提出する信託の計算書がある
- 山田家では、受託者である美咲が提出義務者になる
- 一般の受託者に係る信託の計算書の提出期限は、原則として翌年1月31日
- 信託の計算書と和子の所得税確定申告は、提出者、目的、期限、様式が異なる
- 初年度は、信託開始日以後の収益、費用、資産、負債を区切って確認する
- 美咲は事実を示す資料をそろえ、税理士が帳簿、税務判断、書類作成を担当する
- 税理士が提出する場合でも、美咲は受託者として内容を確認する
- 提出書類だけでなく、e-Taxの受信通知や提出日も年度ごとに保存する
- 信託の計算書を提出しても、和子の所得税確定申告は別に必要になる
次回予告 母へ渡していない家賃にも、税金がかかる?
信託の計算書の提出を終えると、山田家は和子の確定申告の準備へ進みました。
税理士がまとめた資料を見ていた健一は、信託口口座に残っている金額と、和子の生活費として実際に送金した金額が違うことに気づきました。
「母さんへ渡していない家賃まで、母さんの所得になるのですか」
美咲も、信託口口座に残して将来の修繕に備えるお金まで、なぜ母の所得になるのか分かりませんでした。
次回は、受託者が受け取った家賃を受益者へ送金していない場合、その家賃が誰の所得になるのかを確認します。