CASE 11

第11話 信託不動産の赤字は、年金やほかの所得から引ける?

美咲は、司法書士と税理士にも融資条件を共有し、既存借入金を含めた返済計画、自分の個人責任、受託者交代時の扱いを確認しました。健一ともその内容を共有したうえで融資契約を結び、銀行から実行された工事資金を信託口口座で受け取りました。

大規模修繕工事の支払いを終えた美咲は、少しだけ安心していました。

工事代金は大きかったものの、傷んでいた外壁や屋上防水はきれいになり、漏水事故への不安も減りました。

「これだけ工事費がかかったのだから、今年は母の税金も少し軽くなるのかもしれない」

美咲はそう考えながら、税理士との打合せに向かいました。

しかし、税理士が机の上に置いた試算表には、美咲が予想していなかった注意点が記されていました。

試算表は「マイナス50万円」

税理士は、第10話で美咲が集めた工事項目別の見積書、仕様書、写真、契約書、完了報告書、請求書、支払記録を確認していました。

そのうえで、工事費を修繕費と資本的支出に分け、当年の必要経費と減価償却費を計算しました。

税理士が工事完了後の仕様書と施工範囲を確認した結果、修繕費として当年の必要経費へ反映する金額は1,000万円となり、残りは資本的支出として管理することになりました。

試算表には、次の金額が記載されていました。

項目 金額
賃料収入 1,500万円
管理費、固定資産税、保険料等 350万円
当年の修繕費 1,000万円
減価償却費 200万円
必要経費の合計 1,550万円
信託不動産に係る不動産所得 マイナス50万円

「工事代金は2,000万円でしたが、2,000万円全部を今年の必要経費にしたわけではありません」

税理士は説明しました。

通常の維持管理や原状回復に当たると判断した部分は、修繕費として当年の必要経費へ反映しています。

資本的支出と判断した部分は、支払った年に全額を必要経費にせず、取得価額として管理し、減価償却を通じて各年の必要経費へ反映します。

その結果、今年の信託不動産に係る不動産所得は、50万円の赤字になる試算でした。

「母の年金から引けばいいのでは?」

試算表を見た健一が言いました。

「母さんには年金があるだろう。マンションが50万円の赤字なら、年金の所得から50万円を引けばいいんじゃないのか」

和子の公的年金等に係る雑所得は、120万円になる見込みでした。

「120万円から50万円を引けば、残る所得は70万円ということですよね」

美咲も尋ねました。

マンションの所得も年金の所得も、和子に帰属します。同じ人の所得であれば、黒字と赤字を相殺できるように思えます。

しかし、税理士は首を横に振りました。

「この50万円は、和子さんの年金所得から差し引きません。信託不動産から生じた損失には、特別な制限があるからです」

信託を始める前に確認した注意点

税理士は、山田家が家族信託を始める前に作成した収支の試算資料を取り出しました。

「信託を始める前にも、大規模修繕の年に赤字が出る可能性と、その赤字を年金などほかの所得と損益通算できないことを説明しました」

美咲は、そのときの打合せを思い出しました。

マンションの管理を続けるためには、毎年の家賃収入だけでなく、将来の修繕費、空室、固定資産税、保険料などを含めた資金計画が必要だと説明を受けていました。

その資料には、信託不動産が赤字になった場合、その損失を和子の年金やほかの所得から差し引けないという注意も記載されていました。

「その注意点が、今年の工事で実際に問題になったのですね」

「そうです。工事をするかどうかは建物管理の判断ですが、赤字になったときの税務上の扱いも、資金計画と一緒に確認しておく必要があります」

普通の賃貸不動産の赤字なら

税理士は、まず通常の不動産所得の損益通算から説明しました。

個人が自分で所有する賃貸不動産から生じた不動産所得が赤字になった場合、その損失は、所得税法上の一定の範囲で、給与所得や事業所得、公的年金等に係る雑所得など、ほかの総合課税の所得との損益通算を検討します。

ただし、普通の賃貸不動産であっても、赤字なら必ず全額を差し引けるわけではありません。

土地等を取得するための負債利子に相当する部分など、損益通算の対象にならない金額があります。

「普通の不動産所得にも制限はあります。そのうえで、信託から生じた不動産所得の損失には、さらに別の取扱いがあります」

通常の所有者と、信託の受益者は立場が違う

山田家のマンションは、和子が自分で管理している通常の賃貸不動産ではありません。

美咲が受託者としてマンションを管理し、工事を発注し、信託口口座から代金を支払っています。

一方、マンションから生じる所得は、受益者である和子に帰属します。

「利益が和子さんに帰属するなら、損失も和子さんに帰属するのではないですか」

健一が尋ねました。

「所得計算上、信託不動産の収益と費用は和子さんに帰属します。ただし、その計算で生じた損失を、和子さんの信託外の所得と自由に相殺できるわけではありません」

通常の所有者は、自分の財産を自分で管理し、その財産に関する債務や損失を直接負担します。

これに対し、信託では、財産を管理し、契約を結び、支払いを行うのは受託者です。受益者は、通常の所有者と同じ形で、その債務や損失を直接負担しているわけではありません。

そのため、個人が信託から生じる不動産所得について損失を生じた場合には、その損失をほかの所得との損益通算などに使えない特別な制限が設けられています。

年金所得120万円と赤字50万円は相殺しない

税理士は、もう一枚の紙に数字を書きました。

所得 金額 今回の扱い
和子の公的年金等に係る雑所得 120万円 そのまま所得計算の対象とする
信託不動産に係る不動産所得の損失 マイナス50万円 年金所得との損益通算に使わない

「したがって、120万円から50万円を引いて70万円にする計算は行いません」

税理士は答えました。

ここでいう120万円は、公的年金の受取額そのものではなく、公的年金等控除後の雑所得の金額です。

実際の所得税額は、ほかの所得、所得控除、源泉徴収税額などによって変わるため、山田家ではこの場で税額まで単純計算しませんでした。

大切なのは、信託不動産の赤字50万円を、和子の年金所得120万円から差し引かないことです。

美咲が支払っても、美咲の赤字ではない

美咲は、別の疑問を口にしました。

「工事の契約をしたのも、代金を振り込んだのも私です。それでも、私の所得から引くものではないのですね」

「はい。美咲さんは受託者として信託財産を管理し、信託口口座から支払いました。美咲さん個人が自分のために負担した工事費ではありません」

山田家では、次の役割が分かれています。

  • マンションを管理し、契約し、支払う人――受託者の美咲
  • 信託不動産から生じる所得が帰属する人――受益者の和子
  • 税務上の区分、帳簿、所得計算及び申告を担当する人――税理士

美咲が工事代金を振り込んだからといって、信託不動産の損失が美咲個人の不動産所得の赤字になるわけではありません。

来年の黒字から引くこともできない?

健一は、試算表を見ながら次の質問をしました。

「今年の年金から引けないなら、来年マンションが黒字になったときに、この50万円を引けばいいんじゃないか」

一般に、青色申告者に純損失が生じた場合には、一定の要件の下で翌年以後へ繰り越す制度があります。

しかし、信託から生じる不動産所得の損失は、通常の不動産所得の赤字と同じように、翌年以後の黒字から差し引くために繰り越すことはできません。

「今年の年金所得との損益通算にも使わず、来年の信託不動産の黒字へ回すこともしない、ということです」

税理士の説明を聞き、健一は数字の横に線を引きました。

「赤字がなかったことになる」の意味

税法では、信託から生じる不動産所得の損失について、一定の規定を適用するうえで「生じなかったものとみなす」という扱いがあります。

和子は、その言葉を聞いて尋ねました。

「赤字がなかったことになるなら、工事代を払ったことも考えなくてよいのですか」

「いいえ。税務上、損益通算や繰越しなどに使わないという意味です。実際の支払いまでなくなるわけではありません」

信託口口座から工事代金を支払ったため、口座の残高は実際に減っています。

建物の工事を行った事実も、修繕費と資本的支出に分けた税務上の記録も残ります。

資本的支出となった部分は、翌年以後も減価償却を続けるため、取得価額、耐用年数、償却累計額、未償却残高を管理しなければなりません。

税務上、赤字をほかの所得との相殺等に使えないことと、信託財産の現金が減ったこと、工事や資産の記録が必要なことは別の問題です。

美咲が残す資料、税理士が行う計算

美咲は、今年の資料を三つに分けて保管することにしました。

一つ目は、賃料の入金、管理費、固定資産税、保険料など、信託不動産の所得計算に必要な資料です。

二つ目は、工事の見積書、仕様書、契約書、完了報告書、請求書、検収書、写真、信託口口座からの支払記録です。

三つ目は、資本的支出とした金額、資産区分、耐用年数、減価償却費、未償却残高が分かる資料です。

美咲は、事実と資金の流れが分かる資料をそろえます。

税理士は、その資料を基に帳簿を整え、修繕費、資本的支出、減価償却費を判断し、和子の不動産所得を計算します。

そして、信託不動産の損失をほかの所得と混同せず、和子の確定申告書へ反映します。

山田家の結論

山田家では、信託不動産の不動産所得が50万円の赤字になる見込みでした。

和子には公的年金等に係る雑所得が120万円ありますが、信託不動産の赤字50万円を差し引いて70万円にする計算は行いません。

この赤字を、美咲の所得から差し引くこともありません。

翌年の信託不動産の黒字から差し引くために繰り越すこともしません。

一方、美咲は、工事代金を信託口口座から支払った事実、工事内容、修繕費と資本的支出の区分、減価償却の記録を引き続き管理します。

受託者が財産を管理していても、所得は受益者へ帰属します。

しかし、受益者へ所得が帰属することと、信託不動産の赤字を受益者の年金やほかの所得から差し引けることは別です。

山田家では、信託を始める前に確認したこの制限を、今回の大規模修繕後の試算で改めて確認することになりました。

一般的な注意

通常の不動産所得の損失、信託から生じる不動産所得の損失、土地等を取得するための負債利子に対応する部分、青色申告の純損失は、それぞれ取扱いが異なります。

また、複数の信託、信託外の不動産、事業所得などがある場合には、どの収益、費用及び損失がどの財産に対応するかを区分しなければなりません。

実際の申告では、信託契約、受益者、信託財産、工事内容、損失の内訳及びほかの所得を確認し、税理士へ相談する必要があります。

今回のポイント

  • 受託者の美咲がマンションを管理し、工事代金を支払っても、信託不動産の所得は受益者の和子へ帰属する
  • 通常の不動産所得の損失と、信託から生じる不動産所得の損失は、同じ取扱いではない
  • 山田家では、信託不動産の赤字50万円を、和子の年金所得120万円から差し引かない
  • 信託不動産の赤字を、美咲の所得から差し引くこともない
  • その赤字を、翌年の信託不動産の黒字から差し引くために繰り越すこともできない
  • 税務上、損益通算等に使えなくても、信託口口座から資金が減った事実は残る
  • 修繕費、資本的支出及び減価償却の資料は、翌年以後も保存する
  • 美咲は事実と資金の流れが分かる資料をそろえ、税理士が帳簿、所得計算及び申告を担当する

次回予告 買いたい人が現れた。今、マンションを売るべきか?

大規模修繕後の税務を確認した山田家に、マンションを1億3,000万円で買いたいという打診が届きました。

美咲と健一は、売却した場合の税金と借入金返済後に残るお金を税理士へ確認します。一方、和子には、長年守ってきたマンションへの思いがありました。

次回は、売却後のお金と和子の意向を踏まえ、今マンションを売るべきかを考えます。

前の話 第10話 2,000万円の工事は、全部修繕費?

次の話 第12話 買いたい人が現れた。今、マンションを売るべきか?