第15話 マンションを売却して、信託を終了する
管理会社から美咲へ、マンションを購入したいという連絡が入りました。
提示された価格は、1億4,000万円です。
以前、和子が生きていたときに提示された1億3,000万円を上回る金額でした。
美咲は資料を持って、健一と話をすることにしました。
「前に売却の話が出たときは、お母さんがこのマンションを手放したくないと言っていたから、見送ったでしょう。でも、今回はどうしようか」
健一は、しばらく考えてから答えました。
「僕たちは、母さんほどこのマンションに思い入れがあるわけではない。条件がよいなら、売却して信託を終わらせることも考えてよいと思う」
今度は売却を考えてもよいのではないか
マンションを保有し続ければ、賃料収入を得られます。
一方、建物はこれからも古くなります。修繕や設備更新が必要になり、借入金の返済も続きます。
受託者としてマンションを管理するのは、これまでどおり美咲です。
「今すぐ困っているわけではないけれど、これから先も私がずっと管理を続けるのかと思うと、少し迷っているの」
「母さんのために残していたマンションだから、僕たちが無理に持ち続ける必要はないと思う」
二人は、1億4,000万円という価格だけで決めたわけではありません。
これから得られる収入、必要になる修繕、残っている借入金、美咲の管理負担、マンションに対する二人の気持ちを併せて考えました。
その結果、今回は売却へ進むことにしました。
売却の決め方は信託契約で決まる
マンションの登記名義人は、受託者である美咲です。
しかし、登記名義人である美咲が、一人で売却を決められるとは限りません。
誰が売却を決定し、誰の同意を必要とするかは、信託契約の内容によって決まります。
山田家の信託契約では、和子が亡くなった後にマンションを売却する場合、美咲と健一の合意を必要としていました。
「二人が合意した後は、美咲さんが受託者として売却手続を行います」
司法書士の説明を聞いて、健一が尋ねました。
「僕も受益権を50%持っていますが、売買契約には署名しないのですか」
「マンションの売主として契約するのは、登記名義人である受託者の美咲さんです。健一さんは、信託契約に基づいて売却に合意します」
二人が合意した後、売買契約の締結と所有権移転の手続は、美咲が受託者として行うことになりました。
買主へ所有権を移す登記と同時に、このマンションについての信託の登記を抹消します。売却によってマンションが信託財産から外れるためです。ただし、この不動産の信託登記を抹消することと、山田家の信託全体を終了することは別です。売却代金は引き続き信託財産として管理します。
共有と家族信託では何が違う?
「もし、僕たちが普通にマンションを相続していたら、手続は違ったのですか」
健一が尋ねると、司法書士は説明しました。
通常の共有であれば、美咲と健一は、それぞれマンションの共有持分を持ちます。登記にも二人の名前が記載されます。
マンション全体を売却するときは、共有者である二人が売主として手続を行います。それぞれが、自分の共有持分だけを売却することもできます。
山田家の家族信託では、美咲と健一が持っているのは、マンションの共有持分ではありません。二人が持っているのは、50%ずつの受益権です。
マンションの登記名義人は、受託者である美咲のままです。
山田家では、信託契約に従って二人が売却に合意し、その後の売買契約と所有権移転手続を美咲が受託者として行います。
受益権そのものは譲渡の対象になり得ますが、山田家では信託契約によって、その譲渡が制限されています。
| 通常の共有 | 山田家の家族信託 | |
|---|---|---|
| 二人が持つ権利 | マンションの共有持分 | 50%ずつの受益権 |
| 登記名義 | 美咲と健一 | 受託者である美咲 |
| マンション全体の売却 | 二人が売主として手続する | 信託契約に従って合意し、美咲が受託者として手続する |
| 個別の権利の譲渡 | 各自の共有持分を売却できる | 受益権は譲渡の対象になり得るが、信託契約による制限がある |
売却代金はいったん信託口口座へ入る
売買契約は、美咲が受託者として締結しました。
決済の日、売却代金1億4,000万円が信託口口座へ振り込まれました。
美咲個人の口座や、美咲と健一の口座へ直接分けて振り込んでもらったわけではありません。
マンションは信託財産です。その売却によって受け取る代金も、まず信託財産になります。
信託口口座へ入った売却代金から、売却時点で残っていた借入金約3,200万円を返済しました。
さらに、売却費用、登記関係費用、信託清算費用などとして、約800万円を支払いました。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| マンションの売却代金 | 1億4,000万円 |
| 借入金の返済 | 3,200万円 |
| 売却費用、登記関係費用、信託清算費用など | 800万円 |
| 信託口口座に残る金額 | 1億円 |
借入金と必要な費用を支払った後、信託口口座には約1億円が残りました。
1億円に税金がかかるわけではない
健一は、税理士が作成した資料を見ながら尋ねました。
「信託口口座に1億円が残るなら、この1億円が売却益になるのですか」
「いいえ。手元に残る現金と、税金を計算するための譲渡所得は別です」
税理士は、二つの計算を分けて説明しました。
一つは、売却代金から借入金や各種費用を支払い、信託口口座にいくら残るかを確認する資金の計算です。
もう一つは、マンションの売却によって生じた譲渡所得を計算する税務上の計算です。
借入金を3,200万円返済しても、その元本返済額を譲渡所得から差し引くことはできません。
借入金の返済は売却代金の使い道であり、マンションを売却したことによる利益を計算する費用ではないからです。
取得費は相続税評価額に置き換わらない
譲渡所得は、売却代金から取得費と譲渡費用を差し引いて計算します。
取得費の計算では、和子がマンションを取得したときの取得価額を引き継ぎます。
和子が亡くなったときの相続税評価額や、美咲と健一が相続した受益権の評価額に置き換えるわけではありません。
建物については、和子が取得してから売却するまでの減価償却費を反映します。
税理士が過去の売買契約書、土地と建物の取得価額、これまでの減価償却の記録を確認した結果、売却時点の取得費は1億700万円となりました。
譲渡所得から差し引く譲渡費用は、マンションを売却するために直接かかった費用です。
信託口口座から支払った約800万円のすべてを、譲渡所得から差し引くわけではありません。
今回、譲渡所得の計算に使用する譲渡費用は500万円でした。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 売却代金 | 1億4,000万円 |
| 取得費 | 1億700万円 |
| 譲渡費用 | 500万円 |
| 譲渡所得 | 2,800万円 |
譲渡所得は1,400万円ずつ
売買契約を締結したのは、受託者である美咲です。
しかし、譲渡所得2,800万円が美咲一人に帰属するわけではありません。
売却時点で、美咲と健一は受益権を50%ずつ持っていました。
そのため、譲渡所得も50%ずつ、1,400万円がそれぞれに帰属します。
| 受益者 | 受益権割合 | 帰属する譲渡所得 |
|---|---|---|
| 美咲 | 50% | 1,400万円 |
| 健一 | 50% | 1,400万円 |
美咲と健一は、それぞれの確定申告で、自分に帰属する譲渡所得を申告します。
所得税、復興特別所得税、住民税も、それぞれが納めます。
残余財産は5,000万円ずつ
マンションを売却し、借入金と必要な費用を支払った後、信託財産として残ったのは約1億円の現金です。
山田家の信託契約では、信託終了時の残余財産を、美咲と健一へ50%ずつ帰属させることになっていました。
そのため、美咲と健一は、それぞれ約5,000万円を受け取ります。
| 帰属権利者 | 割合 | 受け取る残余財産 |
|---|---|---|
| 美咲 | 50% | 約5,000万円 |
| 健一 | 50% | 約5,000万円 |
「僕が受け取る5,000万円と、確定申告に出てくる1,400万円は、違う数字なのですね」
「そうです。5,000万円は、信託口口座に残った現金の分配額です。1,400万円は、税金を計算するために健一さんへ帰属する譲渡所得です」
手元に残る現金と、税金を計算するための所得は一致しません。
5,000万円ずつ受け取ると贈与になる?
健一は、もう一つ確認しました。
「5,000万円ずつ受け取ると、兄妹の間で贈与があったことにはならないのですか」
山田家では、美咲と健一が受益権を50%ずつ持っています。
信託終了時の残余財産も、信託契約に従って50%ずつ受け取ります。
信託終了の直前に持っていた受益権の割合と、実際に受け取る残余財産の割合が一致しているため、兄妹の一方から他方へ財産を移したものではありません。
一方、受益権の割合と異なる分け方をすれば、一方から他方へ財産が移転したとして、贈与税の問題が生じる可能性があります。
税理士は、信託契約、受益権割合、売却代金の入金、借入金と費用の支払い、残余財産の分配を一続きで確認できるように整理しました。
売却しただけでは信託は終わらない
マンションを売却すると、信託財産は不動産から現金へ変わります。
売却しただけで、信託全体が当然に終了するわけではありません。信託契約に定めた終了事由や必要な合意を確認します。また、信託が終了しても、債務の支払い、残余財産の分配などの清算が終わるまでは、信託は存続するものとみなされます。
美咲は、受託者として次の処理を行いました。
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売却代金を信託口口座へ入金する
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借入金を返済する
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売却、登記、信託の清算に必要な費用を支払う
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売却までに生じた賃料と経費を整理する
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譲渡所得の計算に必要な資料を税理士へ渡す
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残余財産を美咲と健一へ50%ずつ分配する
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信託に関する帳簿や書類を保存する
信託契約に従って終了の手続を進めた後も、美咲は清算に必要な処理を続けました。債務や費用の支払いを確認し、残余財産を契約どおりに分配して、山田家の信託の清算を終えました。
信託が終わっても、その年の申告は残る
信託を終了しても、その年の税務手続までなくなるわけではありません。
マンションを売却するまでの賃料収入と必要経費は、美咲と健一の不動産所得へ50%ずつ反映します。
マンションの譲渡所得2,800万円も、1,400万円ずつ二人へ帰属します。
建物部分の消費税についても、税理士が売却内容と各受益者の課税関係を確認します。
美咲は、売買契約書、決済明細、借入金の返済資料、信託口口座の取引記録、残余財産の分配記録を税理士へ渡しました。
税理士は、それらの資料を基に、二人の確定申告へ反映しました。
山田家の結論
山田家では、1億4,000万円の購入申込みを受け、美咲と健一がマンションの売却に合意しました。
美咲が受託者として売買契約を締結し、売却代金を信託口口座へ受け入れました。
そこから借入金約3,200万円と、売却費用、登記関係費用、信託清算費用など約800万円を支払い、約1億円が残りました。
残余財産は、信託契約に従って、美咲と健一へ約5,000万円ずつ分配しました。
一方、税務上の譲渡所得は2,800万円となり、美咲と健一に1,400万円ずつ帰属しました。
売却手続を行う人、売却による所得を申告する人、残余財産を受け取る人は、同じとは限りません。
信託契約、受益権割合、売却代金の流れを分けて確認することが必要です。
今回のポイント
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マンション売却に必要な合意は信託契約によって決まる
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山田家では、美咲と健一の合意後、美咲が受託者として売却手続を行う
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通常の共有では不動産の共有持分を持つが、山田家で二人が持つのは受益権である
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受益権は譲渡の対象になり得るが、信託契約による制限がある
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売却代金は、まず信託口口座へ入金する
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借入金の元本返済額は、譲渡所得から差し引けない
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取得費は、和子の取得価額と減価償却の記録を基に計算する
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譲渡所得2,800万円は、美咲と健一に1,400万円ずつ帰属する
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残余財産約1億円は、信託契約に従って約5,000万円ずつ分配する
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現金の分配額と税務上の譲渡所得は別に計算する
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売却後は、借入金の返済、費用の支払い、残余財産の分配、確定申告まで行う
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売却時は所有権移転登記と信託登記の抹消を行う
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不動産の信託登記抹消と、信託全体の終了は別
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信託終了後も、清算が終わるまでは必要な管理を続ける
物語の終わり
残余財産の分配を終えた後、美咲は、長く使ってきた信託口口座の記録を閉じました。
漏水事故への対応から始まり、毎月の管理、確定申告、大規模修繕、借入れ、和子の相続、兄妹への所得と現金の分配、そしてマンションの売却まで、受託者として対応することは少なくありませんでした。
「これで、お母さんから引き継いだマンションのことも、一区切りついたね」
健一が言うと、美咲はうなずきました。
家族信託は、契約を結んだ時点で終わる制度ではありません。
財産を管理し、収入と支出を記録し、税務申告へつなげ、最後に残った財産を契約どおりに引き渡すところまで続きます。
山田家の家族信託は、和子のマンションを守るために始まり、美咲と健一が残った財産を受け取ることで、その役目を終えました。